表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/25

第7話 いつも通りの交番

 茂雄は、四十近くになっても交番勤務の巡査のままだった。


 道案内、落とし物の預かり、交番前の植木の水やり。時の流れに追われることのない、静かな日々が続いていた。

 冷房の音を背に、缶コーヒーを片手に新聞をめくる。それだけで一日が穏やかに過ぎていく。


 彼にとって、それがちょうどよかった。


 この交番では、なぜか“下の名前”で呼び合う風習があった。年齢も立場も関係なく、「茂雄さん」と呼ばれる。

 誰もが肩書より顔を見て話す──そんな町の空気が、茂雄には心地よかった。


   ◇   ◇   ◇


 ある日、署の係長──隆史が淡々と告げた。


 来週から、巡査長になるというのだ。


 茂雄は「ついに来てしまったか」と目を伏せた。

 それは誰にでもいつか回ってくる順番であり、逃げることも断ることもできない。

 長い年月、静かにその順番をやり過ごしてきたが、年齢が彼を追い越した。


 出世を望んだことはない。

 誰かを指導したいわけでも、責任を背負いたいわけでもない。

 交番の窓から通りを眺め、缶コーヒーを飲みながら「ごくろうさま」と声をかけられる。それが茂雄にとっての理想だった。


 報告書は増えるらしい。若手の世話もあるという。

 手当は、笑ってしまうほどわずかだった。


 茂雄は机に額を押しつけ、息のように笑みをこぼした。


   ◇   ◇   ◇


 辞令が出た日も、特別なことは起きなかった。

 勤務も制服も変わらず、胸元の階級章がひとつ増えただけだった。


 「おめでとうございます」と言われるたびに、茂雄は心の中でつぶやいた。

 ──別に、うれしかない。


 缶コーヒーは相変わらず苦く、交番の椅子もいつもの固さだった。


   ◇   ◇   ◇


 その週、新人が配属された。優平。まだ若い盛りの若者だ。

 声が大きく、目がよく笑う。初日から元気いっぱいだった。


 茂雄は、そういう新人を何人も見てきた。

 最初は眩しいほど張り切って、数か月で少しずつ音が静まっていく。

 火が強いほど、早く燃え尽きるものだ。


 優平の姿を見ながら、茂雄は過去に散っていった背中をいくつも思い出していた。


   ◇   ◇   ◇


 ある日の夕暮れ、優平が休憩室で聞いてきた。

「どうして、もっと上を目指さないんですか?」


 茂雄は缶コーヒーを手のひらで転がしながら、少し考えた。

 「交番で十分」という感覚は、説明しても伝わらないだろう。

 けれど、自分の中では確かに根を下ろしている。


 道に迷った子どもが駆け込む場所。

 杖をついた老人が、立ち話をしていく場所。

 その中心にいることが「おまわりさん」だ。


 胸の章が増えても、そこは変わらない。


 窓の外で手を振る子どもに気づき、茂雄は少しだけ目を細めた。


   ◇   ◇   ◇


 数日後、雨の中に迷子が現れた。

 ずぶ濡れで泣いている子を見て、茂雄は手早くタオルを渡し、ヒーターをつけた。

 湯を沸かし、優平に母親への連絡を頼む。


 しばらくして、母親が駆け込んできた。

 「この人が助けてくれたの!」と笑う子の声に、茂雄は思わず肩の力を抜いた。


 母親が深く頭を下げ、「おまわりさん」とつぶやく。

 その響きに、胸の奥で何かが静かに灯った。


   ◇   ◇   ◇


 雨が上がると、空が赤く染まり始めた。

 街の屋根が光を受け、どこか懐かしい色をしていた。


 茂雄は椅子に腰を下ろし、缶コーヒーを開けた。

 ぬるくて、苦くて、いつもの味だった。


 背後に気配を感じる。優平が何か言いたげに立っていた。

 茂雄は空を見上げたまま、静かに息をつく。


 ──巡査長。

 責任も雑務も増えた。だが、それでもここに座っていられる。


 それだけで、十分だと思えた。


「ほんとはな……おまわりさんでいいのに」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ