第7話 いつも通りの交番
茂雄は、四十近くになっても交番勤務の巡査のままだった。
道案内、落とし物の預かり、交番前の植木の水やり。時の流れに追われることのない、静かな日々が続いていた。
冷房の音を背に、缶コーヒーを片手に新聞をめくる。それだけで一日が穏やかに過ぎていく。
彼にとって、それがちょうどよかった。
この交番では、なぜか“下の名前”で呼び合う風習があった。年齢も立場も関係なく、「茂雄さん」と呼ばれる。
誰もが肩書より顔を見て話す──そんな町の空気が、茂雄には心地よかった。
◇ ◇ ◇
ある日、署の係長──隆史が淡々と告げた。
来週から、巡査長になるというのだ。
茂雄は「ついに来てしまったか」と目を伏せた。
それは誰にでもいつか回ってくる順番であり、逃げることも断ることもできない。
長い年月、静かにその順番をやり過ごしてきたが、年齢が彼を追い越した。
出世を望んだことはない。
誰かを指導したいわけでも、責任を背負いたいわけでもない。
交番の窓から通りを眺め、缶コーヒーを飲みながら「ごくろうさま」と声をかけられる。それが茂雄にとっての理想だった。
報告書は増えるらしい。若手の世話もあるという。
手当は、笑ってしまうほどわずかだった。
茂雄は机に額を押しつけ、息のように笑みをこぼした。
◇ ◇ ◇
辞令が出た日も、特別なことは起きなかった。
勤務も制服も変わらず、胸元の階級章がひとつ増えただけだった。
「おめでとうございます」と言われるたびに、茂雄は心の中でつぶやいた。
──別に、うれしかない。
缶コーヒーは相変わらず苦く、交番の椅子もいつもの固さだった。
◇ ◇ ◇
その週、新人が配属された。優平。まだ若い盛りの若者だ。
声が大きく、目がよく笑う。初日から元気いっぱいだった。
茂雄は、そういう新人を何人も見てきた。
最初は眩しいほど張り切って、数か月で少しずつ音が静まっていく。
火が強いほど、早く燃え尽きるものだ。
優平の姿を見ながら、茂雄は過去に散っていった背中をいくつも思い出していた。
◇ ◇ ◇
ある日の夕暮れ、優平が休憩室で聞いてきた。
「どうして、もっと上を目指さないんですか?」
茂雄は缶コーヒーを手のひらで転がしながら、少し考えた。
「交番で十分」という感覚は、説明しても伝わらないだろう。
けれど、自分の中では確かに根を下ろしている。
道に迷った子どもが駆け込む場所。
杖をついた老人が、立ち話をしていく場所。
その中心にいることが「おまわりさん」だ。
胸の章が増えても、そこは変わらない。
窓の外で手を振る子どもに気づき、茂雄は少しだけ目を細めた。
◇ ◇ ◇
数日後、雨の中に迷子が現れた。
ずぶ濡れで泣いている子を見て、茂雄は手早くタオルを渡し、ヒーターをつけた。
湯を沸かし、優平に母親への連絡を頼む。
しばらくして、母親が駆け込んできた。
「この人が助けてくれたの!」と笑う子の声に、茂雄は思わず肩の力を抜いた。
母親が深く頭を下げ、「おまわりさん」とつぶやく。
その響きに、胸の奥で何かが静かに灯った。
◇ ◇ ◇
雨が上がると、空が赤く染まり始めた。
街の屋根が光を受け、どこか懐かしい色をしていた。
茂雄は椅子に腰を下ろし、缶コーヒーを開けた。
ぬるくて、苦くて、いつもの味だった。
背後に気配を感じる。優平が何か言いたげに立っていた。
茂雄は空を見上げたまま、静かに息をつく。
──巡査長。
責任も雑務も増えた。だが、それでもここに座っていられる。
それだけで、十分だと思えた。
「ほんとはな……おまわりさんでいいのに」




