第6話 本日のお買い上げ
商店街のはずれに、小さな自転車店がある。
看板には「川田輪業」とだけ書かれ、色鮮やかなのぼり旗はいつから立っているのか分からない。軒先にはスペアタイヤや修理用チューブがぶら下がり、年季の入った油のにおいが風に乗って漂っていた。
店主の敬三は60代も後半。もう引退してもおかしくない年齢だが、「じいさん」と呼ばれるのは癪なので、まだ「おじさん」を名乗っている。
もっとも、最近は自転車を売ることは減り、仕事の大半はパンク修理と空気入れ。会計もいい加減で、貼り紙には「300円」とあるのに、口では「200でええわ」とまけてしまうため、利益が出ているのか本人にも怪しい。
この日も、近所の子どもがベルを鳴らしながらやってきた。
「おじさーん、ペダルがガクガクするー!」
「ペダルの前に、おまえの運転がガクガクしとんや……」
ぼやきつつも、敬三は腰を上げ、しゃがみ込んでレンチを手にした。
◇ ◇ ◇
そんな昼下がり。油にまみれた指を拭いていると、普段見かけない若者が店に入ってきた。
真っ白なシャツにジャージ姿。姿勢がよく、どこか都会的な雰囲気。手には分厚い専門誌を抱えている。そのページを開き、敬三に差し出した。
「こんにちは。自転車を探してるんですけど……これ、ありますか?」
誌面には、流線型のフレームに白と黒の塗装が輝く、高級そうなスポーツサイクルの写真。
「“クレシダ・ゼロG・アルティメット7・XT1200”ってモデルです。最新のアルミカーボンで、電動ギアに油圧ディスク。重量は7.4キロで──」
説明は呪文のようだったが、その熱を帯びた口調に「本気」が滲んでいた。
「……クレ……シダ、ゼロ……ジー……アルチ……?」
カタカナに弱い脳でどうにかメモ帳に書きとる。文字だけで強そうに見えた。
「近くの店じゃ全然見つからなくて。商店街なら、つながりがあるかなと思って」
さわやかな笑顔を前に、敬三はうなった。
「まあ……調べてみるわ。あるとは限らんけどな」
「本当ですか! 助かります!」
青年は深々と頭を下げ、店を後にした。
トートバッグのタグには「Y.Haruto」と刺繍されていた。名前は悠翔というらしい。風にでも乗っていそうな名前だ、と敬三は思った。
「……クレシダ・ゼロG・アルティメット……地球征服でもする気かいな……」
◇ ◇ ◇
とはいえ逃げたら年寄りの沽券にかかわる。敬三は付き合いのある問屋に電話をした。
「それ、あるぞ。一台だけ展示会用に残っとる。たまたま今日、倉庫で見てきたとこや」
「ほんまか……!」
「ただし値段は高いぞ。98万8000円。税込みや」
受話器の向こうで、さらりと言う。
「……なに⁉︎ きゅう……じゅう……」
敬三は受話器をそっと置き、椅子に腰を落として天を仰いだ。
98万8000円。ほぼ100万円。
パンク修理なら数千回分、空気入れならサービスで延々やれる。店のママチャリを全部売ってもまだ余るだろう。
「さすがに、そんなん買うやつ……おらんやろ……」
でも、あの目は本気だった。
「……しゃーない。頼むわ、一台」
「おぉ、敬三が百万円チャリいった! 記念撮影しといたろか?」
◇ ◇ ◇
一週間後、やたらでかい段ボールが届いた。開封するだけで筋肉痛になりそうな大きさ。
つややかな塗装、ぴかぴかのチェーン、手に吸いつくようなグリップ。なんとか組み上げるころには、汗が油か涙か分からなかった。
「……うちの店が美術館になってもうたみたいやな……」
◇ ◇ ◇
受け渡しの日。悠翔は時間ぴったりに現れ、自転車を見た途端に声を上げた。
「うわ……ほんとに……! 本物だ!」
敬三は震える声で確認する。
「ほ、ほんまに……買うんやろな? 値段、分かっとるんやろ……」
「もちろんです。現金で払います」
トートバッグから出てきたのは、帯付きの札束だった。
「お釣り、いらないですから」
◇ ◇ ◇
時間が止まったように感じた。
「げ、現金一括だと……?」
悠翔は自転車にまたがり、笑って言った。
「夢だったんです、このモデル。でもどこも売り切れで。
それに、この商店街って落ち着くというか、あたたかくて。なんとなく、ここならある気がしたんです」
そう言って、風のように走り去った。
◇ ◇ ◇
敬三はしばらく立ち尽くし、やがてレジを開けた。
そこには札束がぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。
「……ほんまか……うそやろ……」
無言ののち、ぽつりとつぶやいた。
「これでようやく……300円のパンク修理を毎日やっても、約10年分やな……」
そう言ってレジを閉め、にやりと笑った。
「悪いな、“おじさん”は、まだ引退できひんわ」




