第5話 ひげ、ないじゃん
商店街のはずれに、小さな理髪店がある。祖父が開き、父が守り、いまは三代目の篤が一人で切り盛りしていた。
ペンキのはげた木の看板。青と赤のサインポールは今日もくるくる回り続け、ガラス戸を開ければ理容椅子は一台だけ。待合いの長椅子と、ラジオの演歌や天気予報──それが店の日常だった。
篤は三十代。無口で地味、恋愛経験はゼロ。店を継いだ理由も「ほかにやることがなかったから」。夢も野望もないまま、気がつけばハサミを握り続けていた。
けれど腕は確かだ。子どもには「スポーツ刈り」、年配客には「耳まわりをすっきり」、サラリーマンには「いつも通りで」。言葉少なでも通じる信頼関係──それがこの店の居心地だった。
◇ ◇ ◇
ある日の午後。湿った風が通りを抜けたころ、ガラス戸がカランと鳴った。
「いらっしゃいませ」
篤は顔を上げて目を瞬いた。入ってきたのは、見覚えのない若い客。
白シャツに細身のパンツ。耳にかかる真ん中分けの髪。整った顔立ちは妙に中性的で、白い肌に通った鼻筋、長いまつげ。鏡に映すと、男性とも女性ともつかない。
「短めでお願いします」
声も中音。高すぎず、低すぎず。篤の脳は一気に混乱した。
(な、なんだ……男か? 女か? いや、でもズボンは……でも仕草は……)
心のざわめきを押し隠しつつ、クロスをかける。
霧吹きをシュッとすると、ふわりと柑橘系の香り。髪の感触はやたらと柔らかい。
(うわ、なにこれ……女子のシャンプーの匂いじゃん!?)
思わず篤は、普段なら口にしない言葉を出してしまった。
「……きょ、今日は……暑いですね」
返ってきたのは、小さな「そうですね」だけ。鏡越しに目を合わせてもくれない。
(だめだ……女の人と話すとき特有の、あの空気だ……!)
手元がぎこちなくなりながらも作業を続けた。
「では、顔剃りを……」
椅子を倒し、蒸しタオルをのせ、クリームを塗り──カミソリを構えた。
……ない。
ひげが、なかった。顎も頬もつるつる。うぶ毛すら探しにくい。
(ひ、ひげがない!? もし女の人だったら……俺、今めちゃくちゃ失礼なことしてるんじゃ……!)
慌てて声を整えた。
「……軽く、整えますね」
実際には空気をなでるようにカミソリを滑らせただけ。篤の心臓は、鼓動で店のラジオよりもうるさかった。
◇ ◇ ◇
カットを終えたとき、篤は大きく息を吐いた。額には妙な汗。まるで火起こしを任された気分だった。
会計のとき、客が財布を開き、免許証らしきカードが一瞬のぞいた。
(お、性別確認のチャンス……!)
と思ったが、すぐ閉じられてしまった。
(見えねえ! ……結局どっちなんだ?)
曖昧な笑みで「ありがとうございました」と頭を下げる。客は「また来ますね」とだけ告げ、軽やかに去っていった。
◇ ◇ ◇
それから月に一度ほど、その客は来るようになった。服装も髪型も中性的で、相変わらず無口。篤は最初の数回こそ「泡を立てすぎる」「タオルの位置を間違える」と小さな事故を連発したが、いまでは“整えるだけの顔剃り”も板についてきた。
ある日の帰り際、客がぽつりと言った。
「このお店、落ち着いて好きなんです」
「えっ……あっ、そ、それはどうも……」
篤は顔も耳も真っ赤になった。まるで自分のことを「好き」と言われたように聞こえてしまったのだ。挙動不審をごまかすように「あっ、掃除しなきゃ」と言って、タオルを延々と畳み直した。
◇ ◇ ◇
閉店後。ラジオからは歌謡曲、サインポールはゆっくり回り続けている。
篤は鏡の前で整髪剤の瓶を手に取ったが、すぐに戻した。
「……やっぱ、何もつけないでいいか」
耳を赤くしたまま、小さくうなずく。
そして、ぽつり。
「……別に、どっちでもいいけど」
その声は、いつもより少しだけ柔らかかった。




