第3話 いつもの席のひと
商店街の一角にある喫茶店「ルフラン」は、昼下がりになると決まって静けさを取り戻す。
古い木のドアを引いて入れば、磨かれたカウンターと、テーブルごとに置かれた白いランプシェードが柔らかく灯っている。窓の外には、行き交う人影とアスファルトの照り返し。室内には控えめにクーラーが効き、外気の蒸し暑さとは別世界の涼しさだった。
店の隅では、ラッパのようなホーンを持つ蓄音機が回転していた。針が盤面をなぞり、かすれ気味のジャズが流れる。サックスの旋律が、氷を溶かすように静かに店内へ広がっていた。
ここには、毎週金曜日の同じ時間に現れる上品な老婦人がいた。
痩せた肩に薄い羽織をかけ、小さなハンドバッグを膝に抱えて腰掛ける。頼むのは決まってアメリカンコーヒー一杯。砂糖もミルクも使わず、ただ静かに口をつけ、ゆっくりと窓の外を眺める。
その席は、いつも窓際の同じ場所だった。
その姿は常連客というよりも、店の空気の一部に溶け込んでおり、彼女の存在そのものが「ルフラン」の静けさを形づくっているようでもあった。
◇ ◇ ◇
ある金曜日、空は急に暗くなり、雷鳴とともに雨脚が強まった。
突然ドアを引いて入ってきたのは、寄れたワイシャツにネクタイも締めず、背中に雨で張りついた若いサラリーマンだった。革鞄を片手に、肩を落とすように深いため息をつく。
そして彼は、空いていた窓際の席──老婦人の席に、ためらいなく腰を下ろした。
冷たいおしぼりを受け取ると、彼は顔をぬぐい、アイスコーヒーとアメリカンコーヒーを同時に注文した。グラスの氷がカランと鳴り、彼は一気に口へ運ぶ。鞄からしわくちゃの書類を引っ張り出して眺める姿は、どこか投げやりで、仕事に追われた疲れをにじませていた。
◇ ◇ ◇
やがてドアが再び引かれ、いつもの時刻に老婦人が現れた。
雨に濡れた日傘を閉じ、控えめに周囲を見回す。その視線が窓際へと移ったとき、ほんの一瞬、立ち止まった。
いつもの席には、若いサラリーマンが肘をつき、書類をめくりながらアメリカンコーヒーを飲んでいる。
老婦人は黙って一度まばたきをし、やがて表情を崩さぬまま、空いていた奥の席に腰掛けた。
上品なバッグを膝に置き、アメリカンコーヒーを注文する。
注文を受けた店員が気まずそうに「今日はあいにくで……」と口にしかけたが、老婦人は小さく微笑み、首を横に振った。
「いいのですよ。コーヒーはどの席でも変わりませんから」
その声は、雨音に紛れるほど静かだった。彼女の瞳は窓の外ではなく、わずかにサラリーマンの背中の方角に向けられていたが、その意味を知る者は少なかった。
◇ ◇ ◇
雨音と時計の針の音、そして蓄音機から流れるジャズの響きだけが「ルフラン」を満たしていた。
同じ席に座るはずの二人が、別々の席で、同じコーヒーを飲む。
言葉を交わすこともなく、ただ静かに時間だけが過ぎていった。
──そして翌週も、老婦人はまた、決まった時刻に「ルフラン」に現れた。




