最終話 見上げれば、同じ月
商店街の通りを、ゆっくりと風が抜けていく。
昼のにぎわいが嘘のように静まり返り、シャッターのすき間から漏れる蛍光灯の光が、アスファルトを淡く照らしていた。
どこかの家の夕飯の匂い。氷の溶けかけた麦茶の残り香。遠くで鳴るラジオの演歌。
そのどれもが、なぜか懐かしかった。
◇ ◇ ◇
花屋の前を通ると、朝顔がまだ開いていた。
青い花びらの縁が夜露を受け、街灯の光を小さく反射している。
ショーケースの中では、白い花が水の中で静かに揺れた。
角を曲がると、診療所の窓が見える。
カーテンの向こうで人影がひとつ、カルテを閉じるような仕草をした。
それから照明が落ち、窓に夜空が映る。
その映り込んだ月が、あなたの頬を照らした。
◇ ◇ ◇
少し歩くと、文具店のガラス戸に貼られた手書きの「閉店」の札。
その向こうに、万年筆が一本、ライトの余韻にきらめいている。
カウンターの上には、誰かが忘れたメモ用紙。
そこには、達筆な一行があった。
──「また明日」。
◇ ◇ ◇
神社の方からは、まだ微かに太鼓の残響が届いていた。
風が運ぶその音は、遠ざかるほどに柔らかく、まるで誰かの鼓動のように響いている。
砂利道の上を歩くたびに、靴底が小さく音を立てた。
提灯の灯りが一つだけ残っていた。
揺れる光に手をかざすと、影があなたの指の隙間に吸い込まれていく。
◇ ◇ ◇
坂の上に出ると、町全体が見渡せた。
どの店も、診療所も、交番も、屋台のあった神社も、みんな眠るように並んでいる。
それぞれの屋根の上に、同じ月の光が落ちていた。
あなたは立ち止まり、空を見上げる。
丸く澄んだ月が、雲の切れ間から現れる。
その光は、あなたの頬にも、遠く離れた誰かの頬にも、同じように降り注いでいる。
◇ ◇ ◇
息を吸うと、夜の匂いが胸に広がった。
遠い記憶と、今日の音と、見知らぬ誰かの笑い声が、すべてひとつに溶けていく。
そして気づく。
この町は、あなたの知らないうちに、あなたの一部になっていた。
昔の残り香をまとったこの通りは、あなたが歩いた瞬間から、あなたの町でもあったのだ。
◇ ◇ ◇
風が吹き、風鈴が鳴る。
音が夜空へと溶けていった。
見上げれば、同じ月。
あなたが見ているこの光が、
今もどこかで、この商店街を照らしている。
そして、灯りを落とし、月の光だけが残った──




