第23話 夢のミラクル・ポケベル
引き戸を開けると、カランと鈴の音が鳴った。
ナカジマ無線の店内は蛍光灯の白に包まれ、棚には黒電話、ラジオ、録音機が並んでいる。
奥の壁に貼られたポスターには、大きくこう書かれていた。
──『夢の通信 ミラクル・ポケベル 新登場!』
「お邪魔しますよ」
ゆっくりと入ってきたのは和枝だった。
後ろには娘の美保、そして婿の亮治が続く。
「母さん、今日こそ持とうよ。今みんな持ってるんだよ」
「そんなに鳴らされるような用事、わたしゃないけどねぇ」
和枝が笑うと、店の奥から若い店員が姿を見せた。
名札には「新次」とある。
「いらっしゃいませ。ポケベルをお探しですか?」
「ええ、娘に引っぱられてね。何でも“鳴る”らしいじゃないの」
「はい。こちらがうちのおすすめ、“ミラクル・ポケベル”です。鳴るだけでなく、番号で気持ちも伝えられます」
新次が小さな黒い機械を掌にのせる。
手のひらほどの重み。側面には丸い窓と銀の留め具。
和枝は眉をひそめてのぞきこんだ。
「思ったより小さいねぇ。鳴ったら、どうするの?」
「鳴ったら公衆電話から折り返すだけです。簡単ですよ」
「公衆電話から……ふぅん」
「そうです。たとえば外に出ていても、公衆電話からすぐ折り返せます。お家にいなくても連絡が取れるんです」
◇ ◇ ◇
「母さん、ほら見て。数字で言葉ができるんだよ」
美保が連絡帳を広げて指さす。
「ここ。“084”で“おはよう”。“114106”で“あいしてる”。」
「なんだいそれは。暗号じゃないか」
「そう。だけど分かる人にはすぐ伝わるの」
亮治が得意げにうなずく。
「会社でもやってますよ。“0833”は“おやすみ”。ちょっとした遊びです」
「へぇ、若い人は忙しいねぇ。寝る前まで数字でおしゃべりかい」
和枝は笑いながらも、その手はすでにポケベルを撫でていた。
◇ ◇ ◇
引き戸が開き、木箱を抱えた匠が入ってきた。
「納品の帰りに寄ったら、見慣れた背中が見えたもんでね」
「匠さんまで。あんたもこれ持つの?」
「考え中さ。山に配達行くと声が届かんからな。鳴ってくれたら便利そうだ」
「そんなに鳴ったら、町じゅうピーピーうるさくなるよ」
店の中に笑いが広がる。
扇風機の風がポスターを揺らし、「夢の通信」という文字がかすかに光った。
◇ ◇ ◇
契約の紙を受け取り、和枝は名前を書き入れた。
新次が小さなボタンを押す。ピピッと軽い音が響く。
「鳴った……!」
和枝が目を見張る。
「これが“呼ばれた合図”です。お嬢さんが試しに鳴らしたんですよ」
「そうかい。数字の言葉かと思ったら、音で呼ぶのねぇ」
「どちらもできます。数字も、音も、想いを乗せられます」
和枝はうなずき、革のケースを帯の内側に収めた。
「落としたら大ごとだからね。煮物より気をつけなきゃ」
◇ ◇ ◇
夕暮れ、商店街を抜けて帰る道。
和枝の帯の内側で、ミラクル・ポケベルが小さく鳴った。
「おや?」
立ち止まって覗くと、数字が並んでいる。
──084
ポケットの連絡帳を開く。美保の字で「084=おはよう」と書かれていた。
思わず吹き出す。
「まったく、もう夕方なのに“おはよう”とはねぇ」
笑いながら歩き出すと、また小さな音。
今度は、ゆっくりとした数字の並び。
──114106
「……あいしてる?」
夕陽の光が電柱の影を長く伸ばす。
和枝は立ち止まり、胸のあたりをそっと押さえた。
誰かがどこかで、ほんの少しでも自分を思い出してくれる。
それだけで、生きている実感がある。
ミラクル・ポケベルは、まだ温もりを残したまま静かに光を消した。
遠くで風鈴が鳴り、通りの夕餉の匂いが流れてくる。
和枝は目を細めてつぶやいた。
「鳴るも鳴らぬも、悪くないねぇ」
その声は風に溶け、町のあちこちへ、ゆっくりと広がっていった。




