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第21話 名に込める誇り

 ポーン、と控えめな電子音が鳴る。


 匠ハンコ店の自動ドアが開くと、冷えた空気が路地裏の熱気を押し返した。

 木の香りが漂う店内では、店主の恵介が小刀を握り、印材に集中していた。


 カリ、カリ……。

 刃が石を削る音だけが、穏やかに響く。


「こんにちは」


 声に顔を上げると、スーツ姿の女性が慌ただしく入ってきた。

 肩から大きなバッグを下げ、どこか急ぎの様子である。


「いらっしゃい。今日も急ぎかな?」


「はい。会社で正式な印鑑が要るって言われたんです」


「なるほど。じゃあ、拝見しようか」


 差し出された紙には──

 『鷲見澤』の三文字。


「すみさわ、か……。これは難しい苗字だね」

 恵介は眉をひそめながらも、どこか楽しげにメモを見つめた。


   ◇   ◇   ◇


「学生の頃からずっと間違えられてばかりなんです」

 女性は小さく笑ってみせた。


「だろうな。俺も長く店やってるが、鷲見澤すみさわさんは初めてだ」


「でも、この名前が好きなんです。だからこそ、きちんとした印鑑が欲しくて」


「分かった。持ち主が誇れるように仕上げるのが俺の仕事だからな」


 恵介は棚から黒水牛の印材を取り出し、光に透かして確かめた。


「これなら一生使える。任せてもらおう」


 女性は深々とうなずいた。


   ◇   ◇   ◇


 カリ、カリ……。

 店内に再び刃の音が満ちる。


「やっぱり、手彫りなんですね」


「機械じゃできないことがある。余白の取り方や名前の呼吸──それは人の目と手で決めるもんだ」


「間違えられない印鑑、お願いします」


「よし、じゃあ“鷲見澤”らしさを残しながら、誰でも読めるものにしてやろう」


 二人の間に、わずかな緊張と期待が混じった。


   ◇   ◇   ◇


 その時、ふいに店の奥から声がした。

 常連の佳奈が、涼みに立ち寄ってきたのだ。


「恵介さん、冷たい麦茶もらっていい?」


「ああ。冷蔵庫の一番下だ」


 佳奈は座布団に腰を下ろし、麦茶を一口。

「この店は、いつ来ても落ち着くね」と、目を輝かせた。


「落ち着いてなきゃ、良い字は彫れないからな」

 恵介は刃先を動かしながら応じた。


   ◇   ◇   ◇


 やがて、恵介の手が止まる。


「……できた」


 差し出された印影を見た女性は、息をのんだ。


「すごい……読みやすいのに、ちゃんと鷲見澤の形が生きている」


「名前はな、ただの記号じゃない。持ち主が誇りに思えるように刻まなきゃならないんだ」


 女性の瞳が潤み、深々と頭を下げる。

「本当にありがとうございます」


   ◇   ◇   ◇


 帰り際、佳奈が明るく声をかけた。


「お仕事、頑張ってね!」


「はい。また来ます」


 女性が印鑑を大事そうに抱えて去っていくと、恵介はふうっと息を吐いた。


「さて、次はどんな名前に出会えるかな」


 独りごとのように呟き、小刀を握り直す。

 店の中では、再び小さな音が響き始めた。

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