第18話 時を巻く手
風鈴がチリン、と鳴った。
それを合図にしたかのように、町の奥にある時計屋のガラス戸が、きぃ……と軋んだ音を立てて開いた。
真昼の路地裏に、ひっそりと佇む古川時計堂。
看板の文字は色あせ、店内はどこか薄暗い。けれど、ガラス棚に並んだ腕時計や柱時計は、静かに時を主張している。
「こんにちは、源次さん」
顔を出したのは誠という名の少年だった。
中学の休みに入った彼は、時折こうして時計屋を訪れる。
手には止まったままの懐中時計を、大事そうに抱えていた。
「おう、誠か。……今日はどんな時間を連れてきた?」
作業台の奥で、浴衣姿の源次が顔を上げた。
その声は低いが、どこか柔らかい。
「また止まっちゃったんです。じいちゃんの時計……直りますか?」
差し出された懐中時計の文字盤はわずかに欠けている。
それでも誠の手つきから、どれほど大切にされてきたかが伝わった。
「時計ってのはな、“進む”んじゃない。“刻む”んだ」
源次はそう言い、慎重に裏蓋を開けた。
◇ ◇ ◇
「ほら、この子は少し休んでただけさ」
器用な手つきで歯車を整えると、店内に整った響きで満ちていく。
誠は目を凝らし、息を詰めて見守った。
「じいちゃんが言ってました。“時間は戻らないけど、思い出はいくらでも呼び戻せる”って」
「ふふ、いい言葉だ」
源次は小さく笑い、工具を置く。
「俺も若ぇ頃は、こうして時計を持ち込む人でいっぱいだった。
“今日も動いてくれてありがとう”って気持ちを、みんな抱えてきてたもんだ」
「今は……デジタル時計もあるから」
「そうだ。便利だが、追い立てられる毎日でもある」
源次が歯車を回すと、カチ、カチ、カチ……。
小さな音がふいに蘇った。
「動いた!」
ああ。でもな」
「え?」
「5分だけ遅らせてある」
「なんでですか?」
「じいさんと話す時間が、少しでも長くなるようにな」
誠は目を丸くし、それから笑った。
◇ ◇ ◇
「源次さんって、どのくらい店をやってるんですか?」
「そうさな……もう50年近い」
「そんなに……!」
「親父の代から続いてるんだ。継ぐ気なんてなかったが、好きだったんだよ、時計が。
好きってだけで十分な理由さ。お前も、じいさんの時計が好きなんだろ?」
「……はい」
誠は両手で懐中時計を包み込む。
源次の口角がゆるくなる。
「好きで繋がったものは、簡単には壊れん」
◇ ◇ ◇
ガラス戸が鳴り、年配の女性が顔を出した。
「源次さん、今日も暑いわねぇ」
「お、カナエさんか。……今日はどんな時間を?」
「壊れた目覚ましをね。新しいのは買ったんだけど、この子は捨てられなくて」
「わかるよ。時間ってのは、便利さじゃない」
源次は笑いながら時計を受け取った。
そして誠に視線を向ける。
「誠、こっちは待たせるから、あんたはじいさんに話してやりな」
「え……」
「ここなら、ゆっくり語れる時間がまだ残ってる」
誠は懐中時計を見つめ、銀色のケースに反射する光を握りしめた。
◇ ◇ ◇
夕刻。橙色の光が斜めに差し込み、店内を染める。
「ありがとうございます。じいちゃんに、いっぱい話してきます」
「ああ。しっかり話せよ」
ガラス戸を押し開けると、風鈴が再びチリンと鳴った。
蝉の声が外で重なり合い、誠を送り出す。
◇ ◇ ◇
静けさが戻った店内で、源次は止まったままの柱時計を見上げた。
「……この子も起こしてやるか」
指先がネジを巻き、かすかな音が広がる。
動いていても、止まっていても、時は確かにここにあった。
「さて……次の時間が動き出すのを待つか」
源次は深く息をつき、再び作業台に向かった。




