第17話 ありがとうの教え
ガラガラ──。
引き戸が横に滑る音が、昼下がりの駄菓子屋に響いた。
じっとりとした空気が、店の奥まで流れ込む。外では蝉が鳴き、路地には陽炎がゆらめいていた。
キラク商店街の中程にある、小さな駄菓子屋。
柱は黒ずみ、壁紙もところどころ剥がれている。それでも飴玉の瓶はきれいに並び、光を反射して宝石のように輝いていた。
扇風機がゴウンゴウンと音を立てているが、その風は気休め程度にすぎない。
店主のアサヒは瓶の蓋を拭きながら、今日も子どもたちの声を待っていた。
「アサヒさーん! ラッキーくじ、今度こそ当てるから!」
「冷凍みかん、お願い!」
「ふわふわミルク、二つちょうだい!」
わっと駆け込んでくる顔馴染みの子どもたち。
駄菓子屋が一番賑わう時間が、またやってきた。
「福びきは10円からだぞ。冷凍みかんは奥のケース、届かなかったら声をかけな。ふわふわミルクは右の棚だ」
アサヒは手を止めずに答え、子どもたちは元気に散っていった。
◇ ◇ ◇
その中に、一人だけ動きの遅い少年がいた。
棚の前でじっと飴玉の瓶を見つめ、他の子が走り回るのをただ黙って見ている。
「見ない顔だね」
アサヒが声をかけると、少年はぺこりと頭を下げた。
「けん……です。きょう、引っ越してきました」
「そうか、けんくん。じゃあ、この店の決まりを教えておこう」
「決まり……ですか?」
「好きなものは自分で選ぶ。迷ったら店主に聞く。そして買ったら“ありがとう”を忘れない。たったそれだけさ」
けんは小さく頷いたが、まだ棚の前で動かない。
◇ ◇ ◇
瓶には色とりどりの駄菓子が詰まっていた。
『うまい棒』、『ソースせんべい』、『ヨーグル』、『赤するめ』、『スナックサンド』──。
けんはしゃがみ込み、じっと眺め続けていた。
「アサヒさーん! これどうやって食べるの?」
女の子が『赤するめ』を掲げて聞く。
「そのまま食べてもいいけど、ちょっと炙ってみるのも面白いぞ」
「どこで炙るの?」
「そこからは自分で考えるのが遊び方さ」
子どもたちが笑い、店内はさらににぎやかになった。
けんはその光景を隅のベンチから静かに見ていた。
「決めたかい?」
アサヒが尋ねると、けんはようやく棚を見上げ、ゆっくりと手を伸ばした。
「……これ、ください」
選んだのは『ピンクバルーン』──ピンク色のフーセンガムだった。
「はいよ」
アサヒはガムを紙袋に包み、一粒の飴玉を添える。
「これはおまけさ。最初の一回の特別サービスだよ」
「……ありがとうございます」
小さな声だったが、その響きは確かに届いた。
◇ ◇ ◇
夕方、賑わいが落ち着きはじめたころ。
けんはベンチに座り、袋を膝の上でじっと見つめていた。
アサヒは冷蔵ケースから氷の入った麦茶を取り出し、そっと差し出した。
「暑いな」
「……ありがとうございます」
けんは両手で受け取り、氷がカランと澄んだ音を立てた。
「この店に“急ぐ”はないんだ。好きなだけ迷えばいい」
けんは袋の中のガムを見つめ、小さく頷いた。
◇ ◇ ◇
「けーん、遊ぼー!」
外から少女の声が響く。けんは驚いたように顔を上げた。
「行っといで」
「……はい!」
袋を握りしめ、けんは駆け出していく。
振り返り、声を張った。
「麦茶、ありがとう!」
アサヒは、その一言にふっと笑みを浮かべた。
◇ ◇ ◇
ガラガラ──。
引き戸が閉まる音が、静かに残った。
駄菓子屋はまた、次の誰かを迎える準備をしている。
アサヒは瓶の蓋を締め直し、扇風機の前で腕を組んだ。
『さて、次はどんな子かな──』




