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第16話 熱気と笑いと瓶の牛乳

 午後四時を告げる町内放送が遠くで鳴ったころ、「梅乃湯温泉」ののれんがふわりと揺れた。

 「温泉」と大きく書かれてはいるが、実際は単なる銭湯である。けれど、その呼び名に違和感を抱く者は誰もいなかった。


 のれんをくぐると、湿り気を帯びたタイルの匂いと石けんの香りが鼻をかすめる。

 木の下駄箱が並び、鍵には色あせた木札がついている。常連客は慣れた手つきでそれを腕に巻きつけ、奥へ進んでいく。


 番台にはトシヱが座っていた。

 七十代後半、しゃんとした背筋に茶色の作務衣、白い前掛け。小気味よく木の引き出しをはじき、釣り銭を返す手に迷いはない。


「はい、お釣り二百円。女湯はきょう少し熱いよ。三番目のシャワーは出が悪いから別のを使って」


「はーい」


 新しく越してきた母親が緊張気味にのれんをくぐる。

 トシヱはすかさず声をかける。


「大丈夫? あっちの人たちは初対面でも3秒で話しかけてくるから。黙ってると怒られるかもよ」


 母親は思わず笑い、のれんの奥へと消えていった。


   ◇   ◇   ◇


 浴場には大きなペンキ絵の富士山。青空と海、白い波──時代を問わない光景が湯気の中に浮かんでいる。

 黄色い椅子と桶が整然と並び、声と笑いがタイルに反響する。


「その髪! 今度は“コーヒー牛乳色”って言われるわよ!」

「なに言ってんの、そっちの眉毛こそ“喧嘩上等”よ!」

「これは意思が強そうって言われるんだってば!」

「誰に?」

「そりゃもう……数えきれない人に!」


 湯気に笑い声が弾け、トシヱは番台で肩を震わせた。


 男湯からも声が飛ぶ。


「熱っ! 誰だボイラーいじったの!」

「いじってねえ! 設定は昨日と同じだ!」

「文句言うな! 六十過ぎたらもう自分で水足しな!」

「まだ六十だ!」

「うちでは五十から“おじいちゃん枠”だよ!」


 笑いがまた湯気を押し広げた。


   ◇   ◇   ◇


 夕方、父に手を引かれた男の子がやってくる。五歳ほどの小さな足がぱたぱたと音を立てる。


「こんばんは、ふたりです」


「いらっしゃい。銭湯デビューかい?」


 父がうなずくと、トシヱは子どもに微笑んだ。


「きょうが初陣だね。ちょっと熱いけど、いいお湯だよ。富士山もあるし、目を開けて入ってごらん」


「……うん!」


 男の子は胸を張ってのれんへ進んだ。


「あとで瓶の牛乳もあるよ」

「牛乳?」

「あるある。白と茶色、どっちも氷みたいに冷えてる」


 父子は裸になると嬉しそうにのれんをくぐった。


   ◇   ◇   ◇


 夜が近づくと、湯気に包まれた声がいっそう賑やかになる。


「見てパパ、富士山!」

「本物みたいだな」

「ぼく、顔もちゃんと洗ったよ!」


 女湯から誰かが笑う。

「ほら、初陣組が頑張ってるよ!」


 トシヱもにこやかに頷いた。


   ◇   ◇   ◇


 湯上がりの脱衣所には冷蔵庫の前に列ができる。

 瓶の牛乳は80円、コーヒー牛乳は100円。

 ふたを指で弾き、腰に手を当てて一気に飲むのが梅乃湯流だ。


「やっぱ、これがないとね」

「体が勝手に欲しがるんだよな」


 男の子もコーヒー牛乳を抱えてにっこり笑った。


「また来ようね」

「うん!」


   ◇   ◇   ◇


 午後九時。

 番台で帳簿を閉じたトシヱは、耳を澄ませた。笑い声、桶の音、瓶が置かれる小さな音。

 どれも、この場所が今日も生きていた証だった。


「そろそろ閉めるよー!」

「まだ入ってるー!」

「あと五分! それ以上は長湯代もらうからね!」

「そんなルールねえよ!」

「うちではあるのよ!」


 また笑いが湯気の向こうで弾ける。


 トシヱは冷蔵庫から牛乳を一本取り出した。腰に手を当て、ぐいっと飲み干す。


「……うまい」


 富士山の太陽はペンキの空に沈むことはない。

 けれど、湯気と笑いと瓶の牛乳──そのすべてが、今日を締めくくるご褒美のように沁み込んでいた。


 明日ものれんは揺れる。

 梅乃湯温泉は、また誰かの一日を温めるために。

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