第13話 あの朝のベンチ
公園には、早い時間ならではの匂いがあった。
湿った砂、まだ乾ききらない滑り台の金属、露を吸った草の香り。
小さな滑り台、二基のブランコ、木製のベンチが二つ。
どれも色褪せていて、柵の一部には少し錆も浮いていた。
朝の空気にはまだ人の気配が少なく、ひっそりとした静けさがあった。
晃は小学三年生。休みに入ってからというもの、ほとんど毎日、朝のこの時間にひとりでこの公園に来ていた。
母は朝が遅く、弟はまだ眠っている。テレビをつければ音をしぼられ、かといって宿題をする気にもならない。だから晃は、すべり台のてっぺんで風を感じるのを日課にしていた。
その日は、少し違った。
ベンチに、人がいた。
日傘を差したおばあさん。
灰色がかったブラウスに、ゆったりしたロングスカート。
小柄な体をまっすぐ伸ばし、傘の陰の中で、じっと前を見つめていた。
晃は少し警戒して、ブランコのほうへ向かった。
こぎ出しても、金属の軋む音だけが空に響いた。
ちらりと目をやると、おばあさんは動かず、ただ座っているだけ。
その姿から、なぜか目が離せなかった。
◇ ◇ ◇
次の日も、そのまた次の日も、おばあさんは同じベンチにいた。
晃がすべり台に登り、風に目を細めるころ、その姿は必ず視界の端にあった。
会話はない。
目が合っても、軽く会釈しても、返事はない。
それでも、そこに何も言わない存在があるだけで、不思議と安心できた。
数日が過ぎたころ、晃は思い切って声をかけてみた。
「こんにちは」
返事はなかった。
ただ、日傘の中から、わずかに目線が動いた気がした。
「ここ、好きなんですか?」
やはり、返事はなかった。
それでも晃は構わず、すべり台のてっぺんに腰を下ろし、公園全体を見渡した。
風の音、遠くの踏切の音、砂場を歩く小鳥の影。
何も起きない朝。けれど悪くない時間だった。
◇ ◇ ◇
ある日は、晃が砂場で棒きれを使って山をつくっていた。
小さなトンネルを掘っていたとき、ふと気配を感じて顔を上げると、おばあさんがこちらを見ていた。
目が合った瞬間、ほんの少しだけ笑ったように見えた。
晃も、ちょっと照れて笑い返した。
その日、公園を出るとき、晃は小さく手を振った。
おばあさんは何も言わなかったが、日傘の下でわずかに手を上げた気がした。
◇ ◇ ◇
ある朝、ベンチは空っぽだった。
日傘もなく、人影もない。
滑り台にのぼっても、公園を見渡しても、どこにも姿はなかった。
一日だけのことかと思ったが、その次の日も、その次の日も、ベンチは空のままだった。
晃は少しだけがっかりした。
寂しいわけではない。ただ「いるはずのもの」がいないと、空気がどこか違って感じられた。
◇ ◇ ◇
一週間後の朝。
公園のベンチに、別の人影があった。
三十代くらいの女性。その隣には、子どもが三人。にぎやかで、晃より少し年下に見えた。
晃がそっと近づくと、女性がこちらに気づき、微笑んだ。
「おはよう」
「……おはようございます」
子どもたちは砂場へ駆けていき、女性はそれを見守っていた。
晃は思い切って尋ねた。
「……前にここにいたおばあさん、知ってますか?」
「ああ、母です。来てたんですね」
「はい。毎朝、ずっと」
女性は少し驚いたあと、懐かしむように笑った。
「母、孫が来るって張り切っていて。今は朝からおやつ作ったり洗濯したりで、しばらく出歩けないと思います」
「そうなんですね」
「でも、ここが好きだったみたいです。誰とも話さずに、ただ座ってるのが好きで」
「……話はしませんでした。でも、いつも同じベンチにいました」
「ふふ、らしいです」
晃は静かに立ち上がり、ベンチの反対側に腰を下ろした。
そこにはもう、あの静けさはなかった。
代わりに、にぎやかな声と風が確かに同じ場所を包んでいた。
晃はゆっくりと背中をあずけ、空を見上げた。
今日も、公園の朝だった。




