第12話 ぴったり女将
商店街の角を曲がると、ひんやりとした空気が足元をかすめた。
通りに面したガラスの冷蔵ケースから、微かに漏れる冷気だ。
中には豚ロース、鶏もも、ミンチ──赤と白のまだら模様が涼しげな照明に照らされている。
脇には、手作りのハンバーグと自家製ベーコンが、ラップで丁寧に包まれて並んでいた。
扇風機が店の奥でぶうんと回っている。
窓の外からは、じりじりと蝉の声。
暑さが、そのまま切り取られたような空気が漂っていた。
店の名は「精肉竹内」。
奥では、女将の芳江が、着慣れた緑の作業着に白いエプロンを重ね、黙々と肉をさばいていた。
包丁を握る手は年季が入り、迷いがない。
隣には無口な夫・剛。白シャツの上から薄手の割烹着を着て、秤の針をちらちらと気にしながら、紙包みを用意している。
「次っ。そこのお母さん、決まった?」
「ええっと……鶏のもも肉を250グラム……」
「250ね、はい。唐揚げ? 焼き物? まさかこの時期に鍋ってことはないわよね?」
「あ……唐揚げでお願いします」
芳江は手を止めず、鶏もも肉にすっと包丁を入れると、手早く計量する。
秤に置かれたトレーの針が動いて──ぴったり、250グラム。
「はい、250ちょうど。次っ!」
タオルで汗をぬぐいながら待っていた客が、思わず声を上げた。
「すごい、ほんとにぴったりですね……」
「そりゃ肉屋だからね、当たり前なんだよ。これで外してたら恥ずかしいでしょ」
笑う客に、気の小さな旦那の剛が紙にくるんだ肉をビニール袋に入れ、そっと手渡す。
芳江の手が汚れないよう、すこし前から開いて準備していたのだ。
口数は少ないが、会計も手早く、釣り銭も滑らかだ。
女将である妻の背中を、黙って支え続ける──それが剛なりの仕事だった。
「ありがとうございましたー」
その客が去るやいなや、芳江の声がすぐ飛ぶ。
「お坊ちゃん、今日はなに? おつかいに来たのかい?」
手にメモを握った、小さな男の子が立っていた。
幼稚園児か、せいぜい年長くらい。つっかけ履きで、顔だけはやけに真剣だった。
外からは、蝉に混じって子どもたちのはしゃぐ声が聞こえていた。
「えっと……“こまぎれにく 200グラム”って書いてあるよ」
「えらいわねぇ。よし、ぴったりにしてやろうじゃないの」
芳江は笑いながら、豚こまを手に取り、さくっと秤に乗せる。
針はわずかに揺れたあと、ぴったり200で止まる。
「どうだい。これが“肉屋の女将”よ」
「すごい……」
「けんたくん、だっけ? はい、ごほうび」
芳江は冷蔵ケースの下から、小さな魚肉ソーセージを1つ取り出し、手渡した。
けんたは少しびっくりして、それでも「どうもありがとう」と頭を下げる。
剛が肉を包み、袋に入れて手渡した。
「160円です」
小銭を差し出すけんたに、剛は丁寧にお釣りを返し、にっこりと笑った。
◇ ◇ ◇
「ねえ、あれほんとに毎回ぴったりなの?」
次に並んだのは、スーツ姿の若い男性だった。
ワイシャツの背中に、うっすら汗じみが浮かんでいる。
「グラムずれるとね、嫌な顔する人がいるのよ。ぴったりなら誰も文句言わないでしょ。だったら最初からそうすりゃいいだろう?」
「でも、そんな器用なこと、毎回できるもんですか?」
「できるわよ。だいたい肉は生き物でしょ、水分の具合ひとつで重さも違うのよ。
でも、あたしの手も生きてるの。慣れたら分かるようになるもんなのよ」
「……名言ですね、それ」
剛が黙って「豚ロース 250」と書かれた伝票を差し出す。
芳江はそれを横目で見て、「はい、ロースね」と言ってまた包丁を動かした。
◇ ◇ ◇
午後になると、優柔不断な主婦たちが増えてくる。
「えっと……豚バラかな、でも鶏ももも安いし……あ、ひき肉もいいなあ……」
「奥さん、献立は家で考えてから来てちょうだい。こっちは天気予報でもレシピ本でもないのよ」
「ごめんなさい……じゃあ、鶏もも300グラムで……」
芳江の手はすでに動いている。
針はまたも、ぴったりと300を指した。
「──で、本当はひき肉にするつもりだったんでしょ」
「えっ、ばれてました?」
「そりゃ、毎日人の顔見てりゃ分かるわよ。豚の顔でも鶏の顔でもないもん」
「……じゃあ、ひき肉も100グラム追加で」
「はいよ、ついでに今朝挽いたばっかり。そっちの判断は正解だったね」
芳江が笑うと、主婦も笑い、剛が静かに包んだ肉を袋に入れて差し出した。
◇ ◇ ◇
夕方、商店街が少し影を帯びてくる頃。
蝉の声はなお強く、遠くから子どものはしゃぐ声が途切れ途切れに響いてくる。
「精肉竹内」に最後の客が現れた。
年配の男性が、紙袋を手にふらりと入ってくる。
「……鶏むね、300グラムで」
「今日は切り身はもう少ないけど、それでもいい?」
「いいよ。女将が切るやつなら、なんでもうまい」
芳江は小さく笑い、黙って作業を始める。
剛が少しだけにやりと笑って、包丁の動きを見守っている。
カツ、カツと音がして、秤の針が動き──またも、ぴったり。
「ほんと、おたくはすごいなあ」
「明日になったら、手が鈍るかもしれないよ」
「いや、たぶん、明日もぴったりだと思うよ」
会計を終え、客は去っていく。
店の照明がやや落とされ、芳江が手を止めた。
「……今日のぴったり、何回?」
「43中、39ぴったり」
「ふん、まあまあだね」
扇風機が回り続ける中、秤の針は静かにゼロを指していた。
夕暮れとともに、明日また、誰かの注文を受けるその時まで──。




