第11話 忘れていた贈り物
商店街の端にあるクリーニング店の看板は、長い年月で色が抜けていた。
「受付中」とかすれた文字が降り注ぐ太陽の光に透け、頼りなさげに揺れている。
さゆりは、足を止めた。
──まだ、この店があったのか。
もう閉まっていると思い込んでいた。
シャッターはしっかり上がり、ガラス戸の向こうに白いシャツが整然と並んでいる。
忘れていた記憶が、看板を見た瞬間に蘇った。
数年前、渡すつもりで出して、そのまま取りに来なかった一枚のシャツ。
誰のためのものだったか。なぜ出したのか。
思い返すほどに胸の奥がざわめく。
ドアを開けると、チリンと鈴が鳴った。
◇ ◇ ◇
「いらっしゃいませ」
奥から現れたのは、白髪混じりの店主・春夫だった。
ワイシャツ姿に、アイロンの蒸気の匂いがかすかに染みついている。
「あの……ずっと前に出したシャツのことなんですけど」
さゆりの言葉に、春夫は首をひねる。
「何年も経ってるなら、とっくに処分したかもしれんよ」
さゆりは控えを持っていなかった。
ただ「さゆり」という名前で白いシャツを一枚、と告げた。
春夫は目を細めると、無言で奥へ消えた。
冷房機の音と、外から聞こえる蝉の声だけが残った。
◇ ◇ ◇
大学のころ、よく一緒に歩いた人がいた。
話して、笑って、それだけで楽しかった。
けれどある日、互いに違う道を選んでしまった。
その人の誕生日に贈ろうと選んだシャツ。
既製品だけれど少し上等で、襟の裏に小さなイニシャルを刺繍してもらった。
渡せずにしまい込み、ある時、気まぐれでクリーニングに出した。
それが、最後にその人を思い出した瞬間だった。
◇ ◇ ◇
「──これじゃないかね」
春夫の声に振り向くと、手に一枚の白シャツがあった。
ハンガーの端に古びた黄色の紙片。そこには「サユリ」と手書きされていた。
「……これです」
裾をそっと握ると、生地は思った以上にしっかりしていて、アイロンの跡がきちんと残っている。
さゆりは深くうなずき、代金を払った。
「長いこと取りに来ないから、箱にしまってたんだ。まだ残っててよかったよ」
春夫はそう言い、奥へ戻りかけてから、ふと立ち止まった。
「不思議なもんだね。忘れたと思ってたものが、ある日ふいに呼び戻される」
その声は淡々としていたが、どこか温かかった。
◇ ◇ ◇
紙袋に入れられたシャツは軽い。
だが肩にかけると、なぜか胸の奥に小さな重みがのしかかった。
外へ出ると、夕暮れの光が街を傾けていた。
蝉の声が遠く混じり、どこか懐かしさを増していく。
──もう彼に会うことはない。
連絡先も、今どこにいるかも知らない。
それでも、このシャツを受け取ったことで、ようやく自分の中に「区切り」が生まれた。
◇ ◇ ◇
信号待ちで袋の口をのぞくと、内側の刺繍がちらりと見えた。
──あの人のイニシャル。
時間を越えて残った、小さな記号。
それはもう贈り物ではなく、自分だけが持ち帰った記憶になっていた。
信号が青に変わり、さゆりは一歩を踏み出した。
袋の中の白シャツはかすかに揺れ、まるで静かに呼吸しているようだった。




