帰りは怖い
「ご自宅に直接向かいますけど、平和公園通りに入っちゃったほうがいいですかね?」
「あー……おまかせします」
サイトウさんが「ここ君の地元でしょ?」みたいな感覚で聞いてきた。いいえ、ほぼ初見です。固有名詞言われても全然わかりません。
パトカーが角を曲がって狭い道路に進入していく。
左右に並ぶ住宅がまるで壁のように連なっていて、道幅以上に圧迫感を感じる。
「二人とも、さっきのボクらの話、聞こえちゃったでしょ?」
唐突に、タカミネさんが振り返ってそう言ってきた。
「え? ……ああ、まあ……そうっすね」
「すみませんね、物騒な話聞かせちゃって。色々察しちゃうと思うけど、現状、ご覧の有り様なんだよ。全然人手が足りてないんだよね」
「―――。……中にいる感染者の方々は、どうなるのですか?」
それまで黙っていた春雛さんが、不意に口を開いた。
「救急搬送の準備が整い次第、救助……ってことに一応なっているけど、うーん、いつになるかな……」
「もう都内のどこの病院もキャパオーバーなのに、その病院が一つ使えなくなったのは痛手ですね……。他県に搬送しようにも、感染症疑いなんで上からストップさせられているみたいですし、そもそも普通の患者と見分けるのにも、現場で色々混乱が起きてるようです」
質問に答えたタカミネさんに続いて、サイトウさんが現状を説明していく。
ざっくり聞いていても、混沌としている様が目に浮かんでくるようだった。
「そう、ですか……」
春雛さんは肩を落として、それっきりまた黙り込んでしまった。
皆一様に口を閉ざして、車内に重い空気が立ち込め始めた頃、通り過ぎていく風景に変化が起きた。
「なんだあれ……?」
道路沿いのコンビニに、早朝とは思えないほどの客が殺到している。有名なラーメン屋みたいに、店の外にまで行列が並んでいた。
「君たち見てない? 今朝の都庁の速報。あれを見て、都民の間に食べ物や必需品を買い占めようって動きがさっそく出てるみたいだね」
「前にもありましたね、こんな事……」
「だねぇ。―――『都民の皆さん、こちらは中野区警察です。不要不急の外出は控えて、安全な屋内に退避してください』……まあ、あんまり聞いちゃいないだろうけどねぇ……」
タカミネさんがパトカーの拡声器を使って注意喚起をしたが、言葉通り、あまり効果は無さそうだった。
でも、ちゃんとレジを通しているだけ、俺よりはお行儀が良いと思う。
コンビニから視線を外して逆の方を向くと、そっちでは住宅街に黒い煙が昇っているのが見えた。ちょうど差し掛かった横道の奥にある住宅から、赤い火の手が上がっている。
消防車が一台近くに停まっているが、素人目に見ても、火の勢いに比べて放水が足りていないように見えた。
「あんまり……こういう事言うべきじゃないんだけど、今の東京は焼け石に水ってやつだね。……個人的に忠告するけど、その子をつれてさっさと東京から出た方が良いよ、お兄さん。もういつ道路が封鎖されてもおかしくない状態だからさ」
「……」
タカミネさんの重い忠告に、俺は返事を返すことが出来なかった。
そもそも春雛さんとはさっき知り合ったばかりだし、俺に至っては記憶喪失の根無し草だ。どこかに行く宛などない。今更、ウソの身分を騙った事に罪悪感が湧いてきた。
「えっと……どうします、このまま真っ直ぐ行きますか?」
踏切を渡って、緩い坂道を登り、右手に運動場が見える交差点のところで、サイトウさんがバックミラー越しに俺に声をかけてきた。
「えっと……、駅前の通りに行ってもらえたら……」
「中野通りですね」
記憶したばかりの住所と地図を照らし合わせて、なんとか返事をする。
丁字路を左折し、そのまま真っ直ぐ進むと、複数の道路が交わる五叉路に出るはずだ。
しかし、パトカーはその五叉路の手前でストップする事になった。
「なんだ……? ずいぶん車が多いな」
サイトウさんの言う通り、道路には渋滞が出来ていた。
車列のあちこちからクラクションが鳴り、早朝の空にまるで競うように響き渡らせている。
「皆考えることは同じだね、これから東京外に避難する連中だよ。こりゃ、ちょっと時間掛かりそうだ」
タカミネさんが座席にドカッと深く座り直した。
「ただ黙って待つのも退屈だし、何か話でもしようか? サイトウ、お前なんか話題振れ」
「ええー? そうですね……」
タカミネさんの無茶振りにサイトウさんがしばらく悩んでいると、何か思いついたらしく、口を開いた。
「この騒動が終わったら、何かしたい事とかあります? タカミネさんからどうぞ」
「したい事? 何だろうな……まあ、取り敢えずしばらくは休みたいな」
「あれ、娘さんとの旅行の続きじゃないんですか?」
「おいバカ野郎、家庭の事情をバラすんじゃない!」
さっきの無茶振りの意趣返しとばかりに、サイトウさんが笑い出した。
二人が空気を和ませようとしているのが伝わり、自然と車内が賑やかな雰囲気になっていった。
俺はもちろん、緊張し続けていた春雛さんにも、自然と笑顔が浮かんでいた。
「タカミネさんってこんな怖い顔してますけど、実は娘さんにはかなり甘いんですよ。署内でも親バカで有名で」
「おいサイトウ、あんまり年長者をからかうんじゃ―――」
「うしろッ!!」
―――偶然……偶然にも、俺が運転席の後ろで、タカミネさんの方を向いていたから、位置的にソレに気が付いた。
けど、叫んだ時には遅かった。
タカミネさんがサイトウさんの方へ顔を向けた瞬間、道路横の茂みから、狙っていたように女が飛び出した。
女は開いていた窓からパトカーに腕を突っ込んでくると、タカミネさんの頭を掴んで引き寄せ、首筋に噛み付いた。
「ぐおッ!? が、ぁあああ!!!」
「タカミネさんっ!?」
警察官二人の苦痛と悲痛の叫びが、車内に重なって響く。
サイトウさんが素早く腰のホルスターから拳銃を取り出して、タカミネさんに喰らいついている女に銃口を向けたが……、
「………………っッ!!」
サイトウさんは目を見開いたまま、動けなくなっていた。見ると引き金に掛けた指が、小刻みに震えている。まさか……撃つのを躊躇っているのか?
「く、車を出せッ……サイトウ……!!」
「っ! は、はい!!」
タカミネさんが痛みで歪んだ壮絶な形相でそう指示を出すと、サイトウさんはハッと正気が戻ったようにハンドルを握って、アクセルを強く踏みこんだ。
急発進と急ハンドルをしたパトカーの慣性に振り回され、車内の人間は背中を座席に押し付けられ、体を左右に揺らされた。
隣で春雛さんが小さく「きゃあッ」と悲鳴をあげてこっちに倒れ込んできたのを咄嗟に受け止める。
そのまま春雛さんの体を支えながらタカミネさんの方を見ると、ドアに張り付いていた女の姿は無くなっていた。さっきの勢いでパトカーから振り落とせたようだ。
しかし、タカミネさんは首を押さえて座席に蹲っている。押さえている手の隙間から、破れたホースみたいに血が噴き出し続けていた。
「出血してる、早く治療しないと!」
「わかってる!」
右に左に忙しなくハンドルを切って、車を追い越し対向車を避けて行くサイトウさんに叫ぶと、切羽詰まったように返事が返ってきた。
対向車のクラクションを聞き流しながら、パトカーは狭い道を器用に走り抜けていく。
小さな交差点を通過しようとしたその時、真横から急に、一際大きなクラクションが鳴り響いた。
咄嗟に顔を向けると、横断歩道の向こうから、トラックが猛スピードでこっちに突っ込んできていた。
―――だめだ、ぶつかる。
そう思い、支えていた春雛さんの体を座席に押し倒して覆いかぶさった。
次の瞬間、耳を劈くガラスの破砕音と、地がひっくり返ったような衝撃が体を突き抜けていき―――そこで意識が途切れた。