dd/01.Re:お誕生日
夢の中で、何か大きな音を聞いた気がした。
動物の鳴き声のような、人間の叫び声のような、本能に響く音。
それは波や風のざわめきのように、街中の雑踏の喧騒ように、何処から静かに響いていた。
それが数秒前に聞いたのか、それとも何時間も前だったかも曖昧なまま、意識が現実へと浮かび上がる。
しかし目を開けても、瞼を閉じているのとさして変わらないほどに、辺りはうす暗かった。
とりあえず起きようとして、喉が焼き付くように渇いていることに気が付く。
咳き込みながら周囲に目を遣ると、サイドテーブルにガラスの水差しが乗っていた。藁をも掴む勢いで飛びつき、浴びるように水を飲んでいく。まるで体が砂になったように、一瞬で身体の中に染みていった。
水を全て飲み干し、水差しを元に戻してようやく一息つけた。改めて落ち着いて辺りを確認すると、そこはまるで知らない場所だった。
「…………どこ、ここ?」
目を凝らして周囲を見ると、どこかの病院の病室―――ということだけが、辛うじて分かった。
「いてっ……」
腕に引き攣りを感じて目を向けると、腕に点滴の針が刺さっていた。チューブの先を目で追っていくと、輸液パックに繋がっている。が、中は既に空になっていた。
煩わしかったので引っこ抜こうとしたが、勝手にそんな事して良い物かと一瞬躊躇する。が、どうせならアクション映画の主人公のように格好よく引き抜いてやろうと真似したら「アッ……?!」みたいな情けない悲鳴が出た。あと血も出た。
なんだよ、ぜんぜん痛ぇじゃねえか……。
涙と血を少々流しながら、ベッドから立ち上がろうとして、体がフラついて窓に勢いよく手をついてしまった。
まるで自分の足ではないような感覚。俺はいったいどのくらい寝てたんだ……?
自由の効かない身体に眉を顰めつつ、軽い目眩のする頭を持ち上げて窓の向こうの光景を見た瞬間、頭の中が真っ白になった。
―――目に飛び込んで来たのは、曇天の空の下で幾筋もの黒煙を上げて燃えている街並みだった。
そして何があったのか、窓の下の道路には、救急車が後部ハッチを開けたまま放置されていた。そして、救急車の後部から何かを引き摺ったように、アスファルトの上に延びている赤黒い線……あれはまさか、血か……?
まるで戦争か災害でも起きたかのような外の有様に、しばらく呆然としていた。
ハッと正気に戻ってベッドに駆け戻り、枕元を探して急いでナースコールのボタンを押す。
早鐘を打つ心臓を抑えるように、頭の中に浮かんだ嫌な考えを否定しながら、5分か10分か、もしかしたらそれ以上。永遠にも感じる一瞬を祈る様にじっと耐えていたが……いくら待っても、人が来る気配は来なかった。
「なんだ……、何が起きてるんだ……? いや、落ち着け、落ち着いて考えろっ……」
握り潰す勢いで握っていたナースコールをゆっくりと手放し、深呼吸をして、考えを纏める。
……まず、外の状況から推察して、何か非常事態が起きているのは間違いない。
しかもそれは、患者を気にしている余裕が無くなるくらいの、とんでもない何かだ。ナースコールが反応しない事を考えても、それは間違いない。
そして点滴が空になっている事から、それが起きたのはついさっきとかの話ではない。数時間……下手したら1日か2日は経っている可能性すらある。
「ていうかなんで俺、病院なんかに……。………………?」
そもそもこんな所に居る経緯を思い出そうと、そこまで口に出した所で、自分がとんでもない事態に陥ってる事に気がついた。
分からないんだ。
いや、病院に運ばれたことではなく―――自分が何者なのかが、思い出せない…………。
経歴。仕事。趣味。好物。家族。年齢。あげくには自分の名前さえ、分からない!
何も、思い出せない……!!?
な、なんだ、これは……? どうして俺は、記憶をなにも思い出せないんだ…………?
周囲と自分の身に起きている異常な状況に、頭を抱え込みそうになって手が額に触れた瞬間、指先に何かが触れた。そこで初めて、自分の頭に包帯が巻かれていたことに気が付く。
「頭を打って、記憶喪失……? んな漫画じゃあるまいし……」
ベタな思いつきを笑い飛ばそうとして、口をつぐんだ。
そもそも、俺はどんな漫画を読んでいたのかすら、思い出せないんだ。
まるで自分が自分じゃないような、足場が崩れていくような不安定さに座り込みそうになった瞬間―――お腹の音が、盛大に鳴った。
「…………生きてればお腹は空くよな、うん」
水だけでは満たされなかった胃袋が、記憶喪失なんかどうでもいいとばかりに抗議してくる。
確かにいま、猛烈に腹が減っている。自分の事は何も分からないが、それだけは確かだった。
……とにかく、まずはここから出よう。
ベッドから立ち上がり、患者衣と裸足という格好に心許なさを感じつつ、病室のドアへと向かう。
さしあたり、まずはナースステーションに向かおう。もしかしたら、単なる機器の故障かもしれない。
難なく開いたドアから一歩進んで廊下に出ると、そこは不気味なくらいの暗さと静けさに満ちていた。
恐る恐る病室から出て、何気なく振り返ったときに、それを目にした。
『303−トグサ 様』
病室のネームプレートに、黒いマジックで走り書きされた、三つの文字。
まったく聞き覚えがないが、間違いなく、人の名前だ。
どうやら、誰かに会った時に自己紹介の最初で躓く心配は要らなくなったようだ。
「目が覚めてから、ようやく一つ良い事を見つけられたな……」
ネームプレートに書かれたその三文字を、空っぽの脳に刻み込んで、俺は静まり返った病院内へと足を踏み出した。