バイオのセーフエリアの安心感は、久々に実家に帰ったあの感じと似てる
エレベーターを降りて、廊下の奥の部屋へと向かう。
―――503号室。
ここが俺の部屋……らしい。少なくとも、免許証にはそう記載されている。
ズボンのポケットから鍵を取り出し、鍵穴に差し込むと、シリンダーはスムーズに回った。
ドアノブを掴んで、中へと入る。
「「お邪魔します……」」
偶然、俺と春雛さんの声がハモった。思わず二人揃って顔を見合わせる。
「どうして、戸草さんも言うんです?」
「あ、いや、見覚えのない部屋なもんだから、つい……」
「そういう事でしたか……大丈夫ですよ、鍵はちゃんと合っていたじゃないですか。ご自分の部屋に行けば、何か思い出せますよ、きっと」
「だと良いんだけど……」
中学生に元気づけられながら、部屋へと上がる。正直、『自分の知らない自分の部屋』というよく分からない空間に怖じ気づいていたから、こうして誰かが背中を押してくれるのはありがたかった。
意を決して廊下を進んでリビングに入ると、中は意外なほど整理整頓されていた。独身男の部屋にしては十分過ぎるほどに清潔で、まるでモデルルームみたいにサッパリしている。
「思ったより、綺麗だな……」
俺は掃除好きだったのかもしれないな。とまるで他人事のような感想を思いながら、ひとまずソファーの横にバッグを置いて、背もたれに体重を預けて深く座ってみる。
記憶はないが、不思議とリラックスできてる気がする。元の生活でも、仕事から帰ってきたらこうしてたのだろうか?
「あら? なんでしょう、これ……?」
春雛さんがソファーの前にあるテーブルの上に、ぽつんと置かれていたノートの切れ端のような物を手に取った。
書かれていた文章を読んでいた彼女は、最初は怪訝な表情をしていたが、次第に落ち着きがなくなり、慌てた様子で俺に見せてきた。
「戸草さん! こ、これっ、これ読んでください!」
「んー? どしたの春雛さん」
完全に気を抜いていた俺は、なんの心の準備もなく、書かれている文章を読んでいった。
『愛しのきょう君へ♡ おかえりなさい、どこへ遊びに行ってたんですか? もう先に避難してますからね。きょう君の大事なモノも持っていっちゃうので、返してほしかったらちゃんと私に会いに来てくださいね! 夏木』
……。
…………。
………………。
「…………は?」
内容を理解できず、もう一度、今度はしっかりと最初から読み返してみるが、書かれている文字は見間違いではなかった。
―――い、愛しの、きょう君……?
お、俺の名前は戸草郷二郎。きょう君、ではあるが……なんだ、これは……? 誰が書いたんだ?
俺は家族と住んでいたのか? いやそれにしては、なんだか文面が甘ったるいというか……。
文字もやたらと丸いし、ハートのマークが使われていることといい……ま、まさか俺……、
―――彼女がいたのか……ッ!?
嘘だろ!? いや、あり得るのか? 俺にそんな恋仲の女性が……?
しかもこれ、玄関の鍵は閉まっていたから、合鍵を渡しているタイプじゃねえか!? 同棲ってやつ!? やだ、アダルト過ぎない!?
「は、はは、春雛さんこれ……これぇっ!?」
「や、や、やっぱりそうですよね! そういう事ですよね、これ!?」
書き置きを手にしながら、何故か二人して立ち上がってオロオロとうろたえていた。
急に恋人が生えていきなりリア充になると、人は混乱するらしい。
「ど、ど、どうしよう俺。この人の事、全然普通に記憶に無いんだけど……」
「わ、私に相談されても、何のお力添えもできませんよ! こんな大人な世界の知識なんて持ち合わせていません!」
「てかこれどこに避難したんだよ!? 俺の大事なモノってなに!? なんも判んねぇよ、この夏木って人誰なの!? 助けて春雛さん!!」
「ですから無理ですって!!」
二人して意味もなくわーきゃーとひとしきり騒いだ後、無駄に体力を消耗した俺達は、ぐったりとソファーに座りこんで息を整えながら、考えをまとめる事にした。
「と、とにかく……この件は、一旦保留しておこう……」
「そ、それがいいと思います……〝判らない事をずっと考えていても仕方ないから、判りそうな事から考えて、出来る事をやりなさい〟って、以前祖母が言っていました」
「良いこと言うね、春雛さんのおばあさん……それじゃあ、その助言に従ってみようか」
いますぐ判りそうなことと言えば……そうだ、まず外の様子を確かめてみるか。
このマンションのベランダは、駅前通りを見下ろせる構図になってる。
ベランダに出て下を覗いてみると、やっぱりと言うか、通りを埋め尽くす数の感染者の群れがまだそこにいた。
さっきまで走ったりして色々アグレッシブだったのに、いまは潰れるほど飲んで終電逃した憐れな酔っぱらいみたいに、一様にフラフラとどこかを目指して歩いている。どうやらヤツらは、獲物が目の前に居ない時は大人しいようだ。
しかしこれは、通り過ぎるまで外に出れそうにないな……。
見つかったらどんな反応をするかまだ判らないので、さっさとリビングへ戻る。
「どうでしたか?」
「大勢いた。少しずつ移動してるけど、あの様子だと通りから居なくなるまで暫く掛かりそうだ」
「そうですか……あの、すみません。もう暫くここに、ご厄介になっても宜しいですか?」
「もちろん、好きなだけいたらいいよ」
「……ありがとうございます」
春雛さんは少しの間俯いたあと、どこか困ったような微笑みを浮かべながら、お礼を言ってきた。
「さーて、それじゃあ、冷蔵庫に何かないか見てみるか。下の群れがいつまで居座るのか判んないし」
「あ、私も何かお手伝いします……!」
「そう? じゃあ俺の家に何があるか、ぱぱーっと見てきてくれる? どこが何の部屋かも判ってないからさ」
「わかりました!」
どこか張り切ってリビングを出ていった春雛さんを見送ってから、俺も自分の出来る事をする為に、ダイニングへと向かった。




