とある人間の終わる日常
【Day1|火曜日|午前7時15分|中野区】
朝の中野駅。
ホームの向こう側で、女子高生が立ち尽くしていた。背後で突然倒れたスーツ姿の男が、助けようとした彼女の足を掴んだのだ。短い驚きの声を上げたあと、その少女は、信じられないといった表情で、ただただ呆然としていた。
俺は少し離れた場所からその光景を見ていた。
さっき自販機で買った眠気覚ましの缶コーヒーを片手に、いつものように仕事に向かおうとしていた――そんないつもの朝だった。
「うわ、痙攣してる……」
近くの誰かがそう呟いたのが耳に入ってきた。
小走りでやってきた駅員が近づき、倒れた男の肩に触れる。
男は項垂れたまま、動く気配がない。「急病かな?」と、眠気が居座る頭でボンヤリ考える。
心配そうにする人、スマホで撮影する人、露骨に遠ざかる人、そして無関心を装う人。
様々な反応を示しているが、誰もが自分の乗る電車を待っていた。人一人倒れた程度では何も変わらない、いつもの光景だった。
俺は立ち尽くしたまま、缶コーヒーを手に、電車が来るまで大人しく待った。
しばらくして、ちょっとした非日常の幕を閉じるように電車がホームに滑り込んできた。
ドアが開いたのを見た瞬間、すっかり無意識に動くようになった足が、電車の中へと体を運ぶ。
電車内に入った瞬間、さっきまでの喧騒と切り離され、いつもの変わり映えのない日常に戻った気がした。
―――しかし、ふと電車の窓に目をやると、そこにはまだ、ホームで倒れたままの男の姿があった。
【Day2|水曜日|午前8時20分|自宅】
『……最近気温もぐっと高くなり、夏も本番を控えていますが、それに伴い全国で海難事故が多発しています。先日も東京湾で―――」
何をするでも無く、部屋でテレビの画面をぼうっと眺めている。
今日は待望の振替休日だ。しかし、あれだけ休みたいと思っていたのに、いざ仕事をしなくていいとなると、何をすればいいのか分からず、手持ち無沙汰になっている。
朝食も食べ終わり、いつもは見ないニュースなんぞを見て時間を潰している。
『……昨晩から都内で通報が相次いでいる暴力事件ですが、今朝の時点で既に30件を超えているようです―――』
適当にテレビのチャンネルを変えていると、ニュースキャスターの深刻そうな声が流れてきた。それにつられて、チャンネルを変える手が止まった。
『原因はまだはっきり判明していないとの事ですが、警察関係者への取材によりますと、なんらかの薬物、あるいは集団ヒステリーなど様々な可能性が考えられる、とのことです』
事件の一つが近所だったので、気になってスマホの電源を入れてSNSを開く。既にこの事件にハッシュタグが付けられているようだ。
投稿されたものを見ると『いきなり突き飛ばされて引っ掻かれた!』とか『大声で叫んでるヤバいヤツがいる!』とか『数人で取り押さえてたけど、警察が来るまでずっと暴れていた』など、なかなか衝撃的な文言が画面を流れて行く。
不思議な事に、同じような事件が都内で幾つも起きているらしい。
背中に薄ら寒いものを感じていると、スマホのアラームが軽快に鳴った。
チラシアプリが、近所のスーパーで朝のタイムセールをやっている事を伝えてくる。野菜と乳製品がかなり割安価格だ。昨今の物価高で家計は厳しい。このチャンスを逃す手はない。
さっきまでだらけていた自分に気合を入れ、財布とカギを手に取り、バックを肩に引っ掛けて、食料の買い出しに外へと出かけた。
【Day?|曜日未詳|時刻不明|???】
ッ……なんだ、何が起こった……?
気が付くと、身体中に感じた事のない激痛が走っている。頭がデカいハンマーで殴られてるように痛む。
視界が昏く、自分が目を開けているのかどうかすら判別がつかない。
気絶していたのか……?
『……さーん、病院つきましたよ、返事できますかーっ?』
壊れたテレビのスピーカーみたいに篭った声が遠くでする。言葉は聞こえているのに、脳からこぼれ落ちていくみたいに意味が理解できない。返事をしようとして、声がでない、いや、出ているのか……?
『……っ! …………! ………』
もう、これが自分の声かどうかも解からない。まぶたが重く、体が動かない、もうなにも考えたくない……。三日徹夜した時のような、有無を言わせない怠さが襲ってきた。それまで微かに見えていた光が、どんどん小さくなっていく。
そして訳もわからぬまま、真っ暗な井戸の底に落ちていくように、俺の意識は途絶えた。