【序章】第八話『異形の蜘蛛、一閃。彼と私の出会い《はじまり》』
森は、息を潜めるように沈黙していた。
けれど、空気は澱み、木々が重なり合い、天井のように覆い被さる枝葉の隙間から、星のない漆黒の空がちらりと見えるだけだった。
私は、手に持っている松明の灯りに心底、助けられているなと感じながら、歩いていた。
この灯りがなければ、足元の光苔だけでは、きっと何も見えず、ただ暗闇に包まれていただろう。
(こんな暗闇の中、魔物に襲われたらひとたまりもないわ――)
共に歩く男の子――陽翔くんも同じ気持ちなのだろう。
その小さなその手は、ぎゅっと私の手を握っていた。
(――怖い。けれど、陽翔くんを守らなきゃ)
松明の炎が、わずかに木々の影を揺らす。
風はないはずなのに、時折、背後から木の葉が擦れるような音がする。気のせいか、私たちの足音に何かが重なって聞こえる。
気を張りすぎて、耳の奥が痛くなりそうだった。
「……ねえ、お姉ちゃん」
不意に、陽翔くんが囁くように声を出した。
「さっきから、何か聞こえない?」
「えっ……何か聞こえたの?」
私は足を止め、耳を澄ます。
「……ぼうや……」
「……ほら、また聞こえるよ?」
「……っ、まさか、ほかの人が……?」
「……ねぇ、ぼうや……」
確かに、何かが聞こえる。微かに、空気の奥で響く、人の声。
――囁くような、くぐもった誰か、子供を探すような女の人の声だ。
「ママの声に似てる……もしかして、ママかも……?」
陽翔くんが小さく呟いた。
はっとして彼を見た時には、もう遅かった。次の瞬間には、私の手を振りほどいて陽翔くんは、走り出していた。
「だめっ、待って! 勝手に動いちゃ――!」
私の声など聞こえないかのように、陽翔くんは手を離れ、声の方へと駆けていく。
私は慌てて、その背中を追った。
松明の火が揺れ、暗がりの中で枝葉をかき分け、道なき道を走る。時折、低く垂れた枝が顔に当たり、腕に棘のようなものが引っかかる。
それでも構わず走った。
息が上がるほど全力で走り、やがて、森の中でわずかに開けた場所に出る。
足元の苔がやや濃くなり、仄かに光っているせいで、あたりの輪郭だけが浮かび上がっていた。
そこは、まるで、小さな部屋のようにぽっかりと開けた空間だった。
「ねぇ、陽翔くん、どこにいるの?」
私は、小さな声で陽翔くんに呼び掛ける。
すると、部屋の奥からガサガサっという物音が聞こえてきた。
「陽翔くん? そこにいるの?」
声をかけるたびにガサガサっという音が返ってくる。
部屋の奥に――確かに、何かが、いる。
恐る恐る、私はその音が陽翔くんである事を祈り、暗い部屋の奥へと足を踏み入れる。
手に持っている松明を高く掲げ、一歩ずつ、音の方へと進む。
やがて、炎の灯りが影を照らし出す。
「陽翔くん! ああ、良かった、無事なのね」
灯りが照らしたのは、部屋の奥で立っている陽翔くんの後ろ姿だった。
もし、魔物とかだったらどうしようかと思っていたが、陽翔くんで安心した。
「もう……勝手に行ったら危ないよ? ほら、お姉ちゃんと一緒に行こう?」
部屋の奥で佇む陽翔くんに声をかけるが――
何故か、陽翔くんから返事がない。
「……ねぇ、どうしたの? どこか怪我したりしたの?」
再度、声をかけても陽翔くんから返事がない。陽翔くんの様子を確かめる為に、私はさらに近づく。
松明の灯りが、よりはっきりと陽翔くんの姿を照らす。
照らされた陽翔くんの後ろ姿は、どうしてか小刻みに震えていた。
「……陽翔くん?」
陽翔くんの動きだけでなく、近づくほどに、音がする。
ジュル……ジュル……と、何かを吸うような粘着音。
(これ、何の音……?)
ゾクリ、と背筋が凍り、言いしれぬ不安を覚える。
それでも、私は、松明を前に掲げ、前へ進む。
「……っ、うそ……」
そして、松明の灯りが――
陽翔くんの前にいる、触れてはならないものを照らした。
それは、『人』の顔を模した、能面のような顔の甲殻をつけた蜘蛛だった。
――いや、『蜘蛛のような』怪物だった。
体表は硬質な黒い甲殻に覆われ、脚は八本。なのに、正面には人のような顔。その顔は、泣き叫ぶような表情の能面のような仮面が、張り付いているみたいだった。
仮面の甲殻が歪に反射し、口のあたりから管状の舌のような何かが伸び、陽翔くんの口の中に、『それ』を突っ込んでいた。
「っ……!?」
蜘蛛が、陽翔くんの口の中に入れている舌のような何かが、口から何かを吸っている。
それは、ジュルジュルと音を立てて、脈動していた。
苦しいのだろう――陽翔くんは、口からは涎が、目からは涙を流し、それに合わせてビクビクっと小刻みに震えていた。
目を背けたくなる光景に、脚がすくんだ。頭が真っ白になり、声も出なかった。
「……ぁ……あぁ……あぐぅ、け……て……」
小さな声が、陽翔くんの口から漏れる。
それは――助けを求めるような声に聞こえた。
(陽翔くんを、助けなきゃ……)
その声を聞いた私は、咄嗟に、手に持っていた松明を高く振りかぶり、叫んだ。
「やめてっ!!」
振り下ろした炎が、魔物に付いている能面の甲殻に直撃する。
ジュゥ、と焦げる音。次いで、甲高い奇声が森の小部屋に響き渡った。
魔物が悶え、陽翔くんから舌を引き抜く。
その隙に、私は彼を引き寄せ、抱きかかえる。
「大丈夫……? ねえ、しっかりして……!」
陽翔くんの目は開いていた。
けれど、焦点が合っておらず、息も浅い。
(このままじゃ……!)
私は彼を背負い、再び松明を握り直した。
今は、逃げるしかない――
そう思った、その時だった。
「ねぇ、コッチだヨ……」
耳元に、微かに響く囁き声。
――男の人の声。けれど、どこか歪んでいた。
私の身体が硬直した。何かが、すぐ背後にいる。
恐る恐る、ゆっくりと振り向く。
そこにいたのは、もう一体の仮面の蜘蛛だった。
先ほどの蜘蛛とは、別の個体。
同じように能面のような甲殻が付いている――だが、先ほどの個体と違い、その面は、にたりと笑っていた。
その蜘蛛が、私のすぐ横で息を潜めていた。
「お、おねぇちゃン……お、おイシそウ……」」
笑っていた面の口が、パクリと開く。
口の中から、うねるように、ぬめる舌のような器官が伸びてきた。
「きゃああああっ!!」
私は叫んで、逃げようとした。
だけど、遅かった。
叫ぶよりも早く、蜘蛛の糸のような繊維が全身を包んでいく。陽翔くんは、地面に転がり、先ほどと同じ泣いた面の蜘蛛が再び接近してくる。
蜘蛛が吐いた糸が、手首、足首、腰、胸……次々と身体に絡みつき、そのまま宙に吊るされてしまう。
陽翔くんを抱えていた腕が、引き剥がされ、手に持っていた松明と共に、彼は地面に倒れてしまう。
その傍に、先ほどの泣いた面の蜘蛛が再び近寄る。
「やめてっ! その子に近づかないで!!」
私の声は虚しく部屋に響き、陽翔くんに近づいた蜘蛛は糸を吐き、彼の体を繭のように包まれていく。
その蜘蛛は陽翔くんを、繭に包み終えると、器用に前脚を使い、繭と共に部屋の奥へと向かう。
「待って! だめっ! やめてぇー!!」
必死に叫び、絡みつく糸を外そうと、もがく。
だが、粘着性のある糸は、もがけばもがくほど絡まっていき、私の手も、足も、次第に動かせなくなっていく。
私は糸に捕らわれ、部屋の天井へと吊るされていく。
これから起きる事への恐怖と、何も出来ない悔しさから、涙があふれ、喉が震える。
「いや……いや、いやっ……!」
その絶叫は糸に包まれ、森のような異界の空間に虚しく消えていく。
私は、恐怖に縛られたまま、糸に絡め取られて宙に浮いていた。
自分の足が地面から離れ、冷たい天井へと吊り上げられている。
宙に浮くその感覚に、恐怖が背筋を這い上がり、思考は霧のように霞んでいく。
目の前に、『笑っている面』が迫る。
まるで人間の能面をつけたような、人の子供くらいの体格をもつ『マネハグモ』と呼ばれる仮面の蜘蛛。
八本の脚で糸を軋ませながら、近づいてくるそれは、まさに悪夢の象徴だった。
(――来ないで!!)
やがて、その蜘蛛は、私の側まで来ると、長い前脚を振り上げた。
細く鋭いその脚が、真一文字に振り下ろされ、そのまま私の着ている服を裂き、布地が裂ける音が響いた。
胸元から下腹部まで、一気に冷たい空気が触れる。
「ひっ……!」
羞恥と恐怖がない交ぜになって、喉が詰まる。
笑う能面の口から伸びている管――魔力を吸うための『吸魔口』が、うねりながら、ゆっくりと私に近づいてくる。
その舌のような器官は、頬から首筋へ、そして、破かれた服の内側へと滑り込んでくる。
破れた服の内側の柔肌を、ぬめる舌のように吸魔口が、私の身体のラインを確かめるように、這っていく。
(嫌っ……気持ち、悪い……)
笑う能面の顔が、どこか楽しげに、いやらしく笑っているように見えた。
それは、まるで『獲物』を弄んで、楽しんでいるかのようだった。
そして、吸魔口は、スカートと肌の境界を探るように迫り、乱れたスカートのホックの隙間から、スカートの中へと侵入してくる。
(やだ、やだやだ…………お願い……誰か、助けて…………!)
そう恐怖に押し潰されそうになった、その時――
「そこまでだ」
鋭い声が響いた。
瞬間――空気を裂く音と共に、仮面の蜘蛛の顔面が真っ二つに割れた。
吸魔口ごと、その身体が断ち切られ、その体が地面へと崩れ落ちる。
そして――私を吊るしていた糸が、張り詰めた弦のように音を立てて弾け飛び、身体を縛っていた束縛が一気に緩む。
糸が切れて、私の身体も落下していく。
「っ……!」
地面に激突する――
そう思い、恐怖から目を瞑った瞬間――
「おっとと。ふぅー、間に合ったぁ」
先ほどと、同じ声が聞こえ、ふわりと宙を舞った私の身体を、力強い腕が優しく抱きとめた。
恐る恐る目を開けると、お姫様抱っこの形で、支えられている私の姿が目に入った。
全身が硬直し、何が起きたのかわからないまま、視線と共に顔を上げる。
床に落ちていた松明の火が、その輪郭を照らし出している。
見上げた先には、整えられた短い黒髪と、金色の瞳――
精悍な顔つきの落ち着いた雰囲気を纏った青年がいた。
所々に傷みのある、年季の入った黒のジャケット。同じく使い込まれた革のベルトと剣。派手さのない、実直な装いだった。
けれどその手からは、確かに自分を救ってくれた優しさと温もりが感じられた。
「大丈夫か?」
そう尋ねられて、やっと声が出た。
「えっ……あ、あなたは……?」
青年は、一瞬だけ微笑んで、
「大上陽太、『異界士』さ」
その笑顔は、陽だまりのような安心感をくれる、優しい微笑みだった。
(……助かった……の?)
現れた大上陽太と名乗る異界士の笑顔に、安堵する。
けれど、そんな思考のすべてが、一瞬で霧散する。
――部屋の奥に行っていたもう一体の仮面の蜘蛛が、青年の背後から跳びかかっていた。
「危ない!」
私がそう叫ぶよりも早く、彼の身体がしなるように動いた。
「ちょっと、ごめんな?」
「えっ……キャア!?」
その仮面の蜘蛛の鋭い前脚が襲いかかる寸前。
彼は、私を片腕で軽々と抱きかかえ、そのまま、もう一方の手に握った剣を、迷いなく振り抜いた。
一閃。
闇を裂くような銀の光が、迷いなく振り下ろされ――泣いた面が真っ二つに割れた。
両断された蜘蛛の甲殻が地面にぶつかる際に、甲高い金属音のような音を立てて地面に転がる。
噴き出した魔物の体液が、松明の炎に照らされて紫に染まった。
その蜘蛛の泣いた能面が、まるでその蜘蛛の気持ちを現しているようだった。
「すごい……化け物が、一瞬で……」
私の喉は震えて、息すらまともにできていなかった。だけど、彼は私の額に触れるように、そっと言った。
「もう大丈夫。よく頑張ったね」
私の震える身体をしっかりと支えたまま、彼はもう一度だけ、私を見下ろして笑った。
剣を構える彼の姿は、絶対に揺るがない何かが宿っているようで――その言葉と表情は、先ほどと同じ陽だまりのように優しく穏やかな笑顔だった。
(あぁ……私、助かったんだ……)
その瞬間、今まで張り詰めていた全てが、ふっと緩み、止めていた涙が、頬を零れ落ちた。