【序章】第七話『異界の森、外を目指して』
「……んっ……あれ……ここは?」
ぼやけた視界の中、重たいまぶたをゆっくりと開ける。
ひしゃげて、曲がり、破れたバスの天井の隙間から、生い茂る木々と漆黒の闇が頭上に広がっているのが見える。
私は顔をしかめながら、ゆっくりと身体を起こした。
気付けば、バスの床で倒れていたみたいで、辺りを見回し、状況を確認する。
バスの車内には割れたガラスや枝葉が散乱し、バスの車体もあちこちで大きく歪んでいた。
外を見ると、さらに鬱蒼とした森の緑が、広がっていた。
(そっか……たしか、バスが裂け目に落ちていって……)
目の前に広がる状況を見て、何があったのか思い出す。
バスの天井の隙間から、上を見上げる。
だが、頭上には、ぽっかりと穴が空いたように真っ黒な空、というよりも、闇が広がっている。
けれど、落ちてきた裂け目の先を見る事は叶わず、どこまで落ちてしまったのかは、分からなかった。
「……私、生きてるの?」
身体の至る所に鈍い痛みを感じる……
だが、幸いにも、それ以外に大きな怪我はないみたいだった。
どのくらいの高さか分からないほど……
高い所から落ちてきたのに、こうして助かったのは、生い茂った森の枝葉が、クッションの代わりになって、私たちを受け止めてくれたからだろうか。
「そうだっ! あの子、は……!」
身体を跳ね起こして、すぐに辺りを見回す。
裂け目に落ちる前に一緒だった男の子の姿を探して、周囲を見渡す。
――いた。
男の子は、近くの座席の傍で小さく身を丸めるように横たわっていた。唇が震え、時折、低く呻いている。
私は急いで彼の元に駆け寄る。
「……ねぇ、大丈夫!?」
そう声をかけ、その小さな身体をそっと抱き起こす。
「……ううん……あれ? お姉ちゃん?」
「あぁ、良かった……怪我は!? どこか痛い所とかない?」
男の子は、こくりと小さく頷く。
「……うん、大丈夫だよ。でも……」
「どうしたの?……どこか、具合悪いとか?」
「わかんない……」
念の為、男の子の額に触れるが……熱はなさそうだった。
だけど、その顔色は青白く、額には汗がにじんでいた。
「お姉ちゃん……ここ、なんか変じゃない……? からだが、ピリピリして気持ち悪いよ……」
彼が言うその症状に、私の心臓が僅かに脈打った。
私自身も、ダンジョンに入ってから、ずっと胸を締め付けられるような『気持ち悪さ』を感じている。
それは、ここに落ちてから、さらに、その感覚は強くなっている。
空気が重く。皮膚の奥がざわつくような、内臓がゆっくり逆流していくような、言いようのない違和感。
(――これって、もしかして……学校で言ってた『侵蝕反応』……?)
ダンジョンの中は『異界化現象』による『侵蝕反応』があるという。
異界化現象が発生していた場所は、その侵蝕反応により、次第に異界の存在に変わってしまうという。
それは、外から中に入った者も例外ではない。
適性がないもの、『魔力』を持たないものには、特にその傾向が強く、侵蝕が早いと聞く。
『魔力』を持つ私はともかく、この男の子がどの程度の魔力を有しているのかは分からない。
放っておけば、すぐに侵蝕されてしまうかもしれない。
そう思った私は――
「ねぇ、この服を着てみて? 少しは楽になるかも」
そう言って、私はそっと笑ってみせながら、自分の制服の上着を脱ぎ、男の子の肩に掛けた。
学校で支給、指定された能力者用の制服。
それには、異界対策用に最低限の『対侵蝕』機能が組み込まれている。その為、『魔力』の影響をある程度、遮断してくれるそうだ。
「……お姉ちゃんは、平気なの?」
男の子が、私を心配して、渡した制服の袖を掴みながら、小さな声でそう聞いてくる。
「私は……お姉ちゃんはね、平気よ。ちょっと特別なの」
男の子は、自分の方が苦しいだろうに、私を心配してくれている。
そんな彼を安心させる為に、被っていたフードを外して、自分の耳を指差して見せた。
「ほら、この耳。お姉ちゃんは『能力者』だから……ちょっと変だけど、大丈夫なんだよ?」
(まさか、この姿を、自分からいじる日が来るなんてね……)
変わってしまった自分が嫌で、隠し続けたこの『長い耳』を、慰めの道具にするなんて。
「そうなんだ! だから、お姉ちゃんのお耳は長かったんだね。ボク、知ってるよ。能力者って、この街を守ってくれているヒーローみたいなものでしょ!」
キラキラした目をして満面の笑みを浮かべる男の子に、私はただ、苦笑いを浮かべることしかできなかった
彼が言うヒーローは、きっと、この街で能力を駆使して『異界』と戦っている『異界士』達の事を想像しているのだろう。
『異界士』――
能力から逃げる事しか考えていない私とは、正反対の人達。
それでも、彼が少しでも安心してくれるなら、それでいい。
今はそう言う事にしておこう。
「そういえば、名前、聞いてなかったね? 私は白野恵瑠。君の名前は?」
「ハルト。朝日奈陽翔」
「……うん、それじゃあ陽翔くん、お姉ちゃんと一緒に行こう?」
私は立ち上がり、陽翔くんの手を取ると、共にバスの扉を抜けて、外に出た。
バスの外に広がっていたのは、まるで別世界だった。
天井はどこにも見えない。
代わりに、上空にまで伸びる巨木の枝が重なり合い、空を覆い隠していた。時折、木々の隙間から闇のように広がる、星のない漆黒の空らしきものが見える。
光は届かず、足元には、青白く光る苔のようなものが生え、淡く明滅している。まるで、森そのものが息をしているかのようだった。
ここが、本当にビルの中だった場所だなんて、到底信じられない。
空だけでなく、地上も木々に覆われ、かろうじて足元に生えている光る苔のようなもののおかげ、完全な暗闇とはなっていないが、鬱蒼としていて視界が悪く、先を見通す事は困難だった。
(これが……異界化……)
「お姉ちゃん……この森、暗くて、怖いね……」
「そうだね……」
恐怖からか、私の手を握っている陽翔くんの手に力が入るのが分かる。
ここは、もう『異界』の空間だ。
さっきのように、バスを襲った怪物――『魔物』がいつ現れるか分からない。
せめて、視界だけでも確保しないと――
「そうだ! あれが、あった……!」
私は周りを探して、手近な枝と、なるべく乾燥していそうな草を拾う。
拾った草を枝の先端に少し隙間を残すような形で巻き付けると、身に付けていたポーチから予備のヘアゴムを取り出して、固定する。
草と枝を固定した後、学校で支給されていた小さなケースをポーチから取り出す。
中には、いくつかの淡い光を宿す小さな丸い鉱石が入っている。
その中から、赤い光を宿す鉱石を一つ手に取る。
「わぁ……キラキラしてて、キレイだね! お姉ちゃん、それなに?」
「これ? これはね、『魔石』っていって、魔力が込められた特別な石なの、これに魔力を通すと、その魔石の種類によって、色々な事が起きるの」
陽翔くんが、珍しそうに聞いてくるので、能力者学校で教えてもらった数少ない私が知っている知識を教えてあげる。
本来は、魔力に目覚めたばかりの人が、魔力の扱い方を覚える為の基礎トレーニング用の道具だが、これを使えば、火を起こせるはず。
「危ないから、少し離れててね?」
「う、うん。分かった……!」
扱い方は聞いていたが、実際に自分から魔力を扱うのは初めてだった。
(失敗したらどうしよう……)
そんな不安を押し込めて、私はゆっくりと魔石に手をかざす。
念の為、陽翔くんには離れてもらい、私は学校の授業で教わった通りに、意識を集中させていく。
(えっと、たしか身体の中にある魔力に意識を向けて、それを指先を通して、対象に流し込むイメージって言ってたっけ……)
集中させていくと、私の身体の中にある魔力が、徐々に指先へと流れて集まっていくような感覚がする。
「火よ」
その感覚に逆らわず、魔力を通し、火が起こるイメージをはっきりさせる為に、呪文を唱え、魔力を『魔石』へと流し込む。
すると、かすかな熱が指先を這った。
パチッと音を立てて、『魔石』から火が弾けた。
「やった……成功――って、わわっ、熱っ!?」
「お姉ちゃん!?」
手に持っている状態で、火が出た為、指先が熱くなる。
私は先ほど用意した枝の先端に作った隙間に、急いで火の『魔石』を放り込む。
『魔石』の火は瞬く間に、枝の先端に巻きつけた枯れ草へと燃え移り、炎が灯る。
「うん、上手く出来たかも!」
魔力を通して作ったのは、枯れ草と枝、火の魔石を使った即席の松明だった。
「お姉ちゃん、すごい! 灯りがついたよ!」
「ふふ、これで少しは、明るくなったかな」
(初めて魔力を扱ってみたが、思ったよりも上手く出来たみたいで良かった……)
「よし、それじゃ出口を見つけようね!」
「うん!」
私はそれを掲げると、陽翔くんと手を繋ぎながら、出口を探して暗い森の中へと歩き始めた。