【序章】第四話『異能の覚醒、日常の崩壊《前編》』
それは、ほんの一年前のことだった。
私が、まだこの都市『カルデラシティ』に来る前。
生まれ育った地方都市で、当たり前のように過ごしていた頃――
『グラウンド・ゼロ』――。
数年前に発生した未曾有の異界化災害。
それを境に、世界には、異世界の魔力が現世に流れ込み、時に世界の姿形を変えてしまう『異界化現象』が発生するようになった。
その現象は、人間にも影響を及ぼし、特定の人間に『異能』の力が宿るようになったとも、ニュースで語られるようになっていた。
世界が変わってから、すでに何年かが過ぎていたけれど――
あの日までは、そんなのは、どこか遠くの、御伽噺の物語だと思っていた。
その頃の私は、高校二年生で、もうすぐ三年生になる時だった。
今とは違い、髪は長くて真っ黒で、瞳の色は茶色。耳も、普通の人と同じ丸みを帯びていた。
どこにでもいるような日本人の女の子。それが、白野恵瑠だった。
高校二年生の年の終わり、年明け後の春には三年生になるはずだった、十二月のある日。
「……あれ……?」
異変は、突然やってきた――
何の前触れもなく、授業中に胸の奥が熱くなるような感覚に襲われた。
(なに、これ……!)
視界が滲む。
心臓の鼓動が耳に響く。
息が苦しい。
体の奥が熱を帯びる。
それは、まるで体の内側から炎が噴き出すような――燃えるような感覚が全身に広がっていった。
「――あ、つ……っ、あ……っ!」
思考も、感覚も、まともに働かないまま、私は苦しさに耐えかねて――
椅子から立ち上がった。
その瞬間、教室に、衝撃波のような風が吹き荒れた。
悲鳴。倒れる机。割れる窓ガラス。舞い散る紙。驚愕する視線。
私の中から噴き出した『何か』が、止めようもなく周囲を巻き込んだ。
見たこともない『魔力』の奔流が、あたりを包み込んでいた。
そして、私は――そこで意識を失った。
目を覚ました時、私は病院のベッドの上にいた。
白い天井と、消毒の匂い。
ベッドの脇には白衣を着た知らない医師が立っていて、私を見下ろしていた。
私が目を覚ましたことに気づいた医師が、何が起きたのかを告げた。
「落ち着いて聞いてください。あなたは――『能力者』として覚醒したのです」
諭すように、だけど、淡々と語られていく言葉に、私は現実味を失った。
「あなたのように、魔力の適性を持つ者の中には、突如として『異能』に目覚める者もいます。目覚めた時、大抵は、今まで抑えられていた魔力が暴走し……そして、あなたのように倒れる。そして、中には能力に目覚めた事で、変異する人もいます」
その言葉が何を意味するのか、すぐには理解できなかった。
「深呼吸して、落ち着いて。この鏡を見てください」
医師が、用意した鏡を見せられた時――
私は初めて、自分の体に起きた『変化』を知った。
その変化に、私は思わず、目を丸くし、息を呑んだ。
そこに映っていたのは、昨日までの私ではない――まるで、知らない誰かが鏡の中にいた。
長く黒かった髪は、金色に。
茶色の瞳は、透き通るような翡翠色に。
そして何より――耳が、普通の人のものと違っていた。
長く、細く、先が尖って……まるで物語に出てくる『エルフ』のようだった。
「この変化は、一説によれば『魂の形』が肉体に表れてきた結果だと言われています」
淡々と話す医師の声が、今も耳に残っている。
「『健全なる精神は健全なる肉体に宿る』という言葉をご存じですか? 肉体が健康であれば、精神も健康になる――なんて、言われている言葉ですが、これは逆の事とも言えまして……『異能』の元である『魔力』とは『魂の力』とも言われているそうです。強い魔力を持つ者は、その魂の力に、肉体が引っ張られる……精神、いわば『魂の形』によって、身体そのものの形も変わる――つまり、内面により外見が作られる。特に白野恵瑠さんのように、潜在魔力量の大きな子は、その影響が顕著に出て、身体が変化しやすい……この変化は、魔力覚醒の際にまれに起きる現象だと言われてます」
そう、医者は静かに言った。
私はうなずくことも、拒むこともできなかった。
理屈ではわかっていても、心が追いつかなかった。
昨日までと、まったく違う自分の姿。
そして、私の魔力暴走で怪我をしたクラスメイトがいたという事実。
――その時点で、それまでの、私の「日常」は、終わりを告げた。
退院してからも、私は日常に戻ろうとした。
けれど、学校に戻った私を待っていたのは、異物を見るような視線だった。
「……なんかさ、あの子って、『化け物』らしいよ」
そんな言葉が、耳に届いたのは一度や二度じゃなかった。
容姿が変わった私を、クラスメイトは遠巻きに見るようになった。
暴走に巻き込まれて怪我をした子たちを中心に、私を『化け物』や『怪物』などと呼び、友達だった子も、徐々に距離を取りはじめた。
先生たちも、表向きには優しく振る舞っていたが、その目には怯えと困惑が滲んでいた。
そうして、私を腫れ物のように扱い、必要以上に距離を取った。
「怪物」
「化け物」
「いつ暴れるか分からない」
そう噂されるようになるまで、そう時間がかからなかった。
程なくして、教室の空気は、冷たく凍りついていき、私は学校での居場所を失った。
それでも、家族だけは私の味方でいてくれて、守ってくれる。
そう信じていた――
私が能力者になってしまった後、最初は、家族だけは私の味方でいてくれていた。
父も、母も、妹も。
変わってしまった私を前に戸惑いながらも、「大丈夫」と言ってくれた。
けれど、時間が経つにつれ、その支えも崩れていった。
家の前に、無言で投げ込まれた紙切れ。
匿名の誹謗中傷。
近所で聞こえる「あの家の子は……」という声。
日々募る、近所や周囲からの偏見や中傷に、やがて家族も耐えられなくなっていった。
父は会社で立場を失い、母は買い物にも出られなくなり、妹は、学校でいじめられるようになった。
「『あの子が』『お姉ちゃんが』、いなければ……」
味方だと思っていた家族は、次第に、私を見ないようになり、口数が減り、やがては――家の中でも、私の部屋に誰も近づかなくなった。
気づけば私は、誰にも話しかけられず、誰からも目を逸らされる存在になっていた。
外に出れば、家族共々、周囲からの非難の声と目に晒される為、次第に私は、部屋に閉じこもる日が増え、誰とも顔を合わせなくなっていった。
暗い部屋に閉じこもるようになった私の心は、いつしか、この部屋と同じように閉ざされていった。
そして、ある日。
政府の職員が家を訪ねてきた。
「現在、政府で行っている能力者保護政策の一環として、異能に目覚めた能力者の保護と育成が出来る環境を用意しております。そこで、娘さんの『異界管理都市』への移住をご提案したいのですが……失礼かと存じますが、今の環境が娘さんのためになるとは思えません。娘さんの未来の為にも、お考えいただけないでしょうか?」
保護。育成。新しい未来。
彼らはそう言っていた。
「……この子を、引き取ってくれるなら……ぜひお願いします。このままじゃ、うちは……あの子といるのは……もう、もう無理なんです……」
その言葉を口にしたのは――父だった。
母も、それに小さく頷いていた。
妹の姿は、そこにはなかった。
私にとって、それは最後の居場所を失った決定的な瞬間だった。
ああ、私は――もう、家族には要らないんだ……
移住の手続きは、あっという間に進んだ。
能力に目覚めた日から、ちょうど一年が経とうとしていた頃、都市に移住する日が決まった。
そして迎えた、都市移住の日。
駅のホームで、私は一人だった。
家族も、友達も、誰一人として見送りに来てはくれなかった。
私は、自分の顔を隠すように、パーカーのフードを目深に被って、ホームに入ってきた電車に乗り込み、生まれ育った街を離れていった。
移動中、付き添ってくれた優しげな職員が「不安なことがあれば、何でも相談してね」と優しく笑ってくれたけれど――その言葉は、どこか遠くに聞こえ、私の心には何も響かなかった。