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旅と地球の淡い夢  作者: 旅崎 ノブヒロ
カッサ=アル=ハラーナ
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カッサ=アル=ハラーナ

 遺跡にはすぐに着いた。

 その遺跡は簡素ながら一応の管理がされているようで、車を止めるスペースが設けられ、奥には小さな管理事務所のような建物がひっそりと佇んでいた。駐車スペースには他に車は一台もなく、僕たちはそのど真ん中に車を停めた。砂と砂利が敷かれた広場はどこか荒涼としていて、辺りに人の気配がまったく感じられない。

 入り口も質素で、小さな事務所がぽつんと一つだけ建っているだけだった。白色に塗られた壁は日差しに晒され、ところどころ色褪せている。その壁には、この遺跡の保全に協力した国々への謝辞が綴られたプラスチック製のプレートが打ち付けられている。プレートは砂ぼこりに覆われ、ところどころ文字の塗料が剥がれ落ちて読みづらくなっていた。事務所の中には、カフィーヤを巻き、深く日に焼けた老人が一人、飄々とした表情で僕たちを出迎えてくれた。観光客も少ないせいか、入場料は驚くほど安く、僕はシュークラン(ありがとう)と言って手早くチケットを買った。

 事務所の裏手には、砂漠の中にまっすぐ伸びる小さな入り口があり、二本のロープで囲まれた簡素な小道が丘の上へと続いていた。周りの砂漠は、よくある「砂の海」というよりは、乾いた大地が広がる礫砂漠と呼ばれるもので、小石や土が混じり、どことなくごつごつとした印象だ。足を取られることもなく、僕たちは照りつける太陽の下、小道に沿って歩き始めた。


 広がるのは果てしない青い空と、遠くまで続く平らな地平線だ。丘の上へ向かってすこし歩くと、視界の先に突如現れるように、砂漠の中に四角形の建築物が見えてきた。その建築物はまるで空から降ってきたかのように唐突で、周りの荒涼とした景色から浮かび上がっているように鎮座していた。あまりにも、それが砂漠の真ん中にポツンと建っているものだから、僕たちは面食らってしまった。

「わぁ、すごいね」

「大きい建物だ」

 思わず息をのむような光景に、僕たちは楽しくなり、足取りを早めて近づいていく。そこには見上げるほど大きな建物があった。表面こそ朽ちて土壁がむき出しになっているものの、倒壊している箇所がほとんどなく、驚くほど美しい状態で保存されている。その一辺は田舎の無人駅のホームくらいの長さがあり、高さはキリン二匹分ほどある。全体としては、まるで巨大なクジラが自由に泳げる水槽のような広さがあり、荒涼とした砂漠の中でひときわ存在感を放っていた。

 遠目には一見シンプルな四角形に見えるが、建物の外壁は土色の石と煉瓦がしっかりと積み上げられており、近づくとディテールが際立ってくる。正面の入り口と四隅の角はやや丸みを帯びており、力強い印象の中にどこか気品を感じさせる。建物の壁には細い小窓がいくつか設けられており、外の光を内部に取り込むのはもちろんのこと、外敵を効果的に弓矢で撃退できるような工夫がされているのが見て取れた。

 また、上部にはずらして積まれた煉瓦がデコレーションのように並べられ、その装飾が建物全体をぐるりと取り囲んでおり、まるでプレゼント箱に結ばれたリボンのようだった。煉瓦が幾何学的に組み合わさり、装飾性と機能性を兼ね備えたそのデザインは、静寂な砂漠の中で特別な存在感を放っている。建物の色合いは、砂漠の色と同化しているようでありながら、どこか異質な雰囲気を漂わせ、悠久の歴史の中で砂嵐や風雨に耐え続けてきた威厳を感じさせた。

「ふしぎだ…」

 思わず日本語でつぶやいてしまった。この建物はいったい誰が、どのようにしてここに建てたのだろうか。入り口の事務所にあった案内板には、ウマイヤ朝時代に建てられたものだと記されていた。ざっと1300年も昔、砂漠の真ん中にこうした建造物が築かれ、今もその姿をほぼ完璧に保っているのが不思議でならなかった。過酷な自然に耐え続けたこの砦は、まるで時間の流れに取り残されたようだ。

 再び、僕は砦の窓に注目した。砦の壁には、必要最小限の縦に細い窓が等間隔に空いていた。日本の城郭に見られる弓矢を放つための構造に似ている。きっと、いざという時にはここから外の敵に向かって矢を放ったのだろう。もちろん、窓に扉などなく、素通しの小窓からは砂漠の風が吹き抜けていた。僕は、この小さな窓を見ているうちに、僕らが宿泊している安宿の「窓」を思い出してしまった。どちらも扉のない、外の空気がそのまま入る開放的な造りであり、時空を超えたふたつの「窓」の共通点に、ふっと笑ってしまった。


 英語ではどちらもキャッスルであるが、装飾が控えめで質素な佇まいは、「城」よりも「砦」という言葉がぴったりの建物だ。僕の目には、この四角い建物が争いのために作られたように見えたが、案内板によれば、ここは一説によると周辺を治めた王族の避暑地として建てられたとも言われているらしい。ただ幾分にも、手がかりも少ないようで、はっきりとした定説はまだないとのことだ。長い歴史の中で人々の記憶から忘れ去られ、いまだ謎が多く残る場所なのだと改めて感じた。

 やがて僕たちは砦の巨大な入口に足を進めた。その扉は驚くほど大きく、圧倒的な存在感があった。人間が通るには大きすぎて、まるで巨人のために作られた門のようだ。

「巨人用って感じだね」僕は冗談めかして言い、タムが笑いながら同意する。

 内部に入ると、建物は中庭を持つ吹き抜け構造になっており、外の光がしっかり差し込んでいて明るい。この開放感のある中庭付きの建築構造は、現在のイスラム建築にも通じるデザインで、建物全体に温かな光が差し込み、心地よい明るさが保たれる。

 右手には階段があり、上の階へと続いていたが、僕はまず1階の部屋から探検してみることにした。タムは「じゃあ僕は上の階から見てくるよ」と軽く手を振って、階段を登っていった。僕らはそれぞれの道を進み、砦の内部を探索し始めた。

 中庭を囲むように、入口を除いて7つの部屋が設けられていた。一つ一つの部屋は天井が高く、広々としている。僕が足を踏み入れるたびに、静寂だった空間にかすかな土埃が舞い上がり、歴史の眠りから目を覚ますかのようだった。足音だけが響く薄暗い部屋には、冷たい空気が流れている。すべての部屋は空っぽで、家具や装飾品などは一切残されていない。ただ、長い年月が刻み込まれた土壁からは、何とも言えない歴史の残り香が漂っていた。

「いったい、ここはどんな部屋だったんだろうか」僕は壁に触れながら独り言をつぶやいた。寝室だったのか、それとも人々が集う食事の部屋だったのか。あるいは食料を保存する貯蔵庫だったのかもしれないし、もっと大事な宝物庫や、時には牢獄として使われたのかもしれない。さまざまな想像が頭を巡り、十数世紀前の人々の生活がぼんやりと目の前に浮かび上がる気がした。


 ふと、タムの様子が気になり、僕は吹き抜けの中庭に向かって声をかけた。「タム!そっちはどんな感じだい?」すると、すぐにタムの声が上から響いてきた。「鳩!たくさんの鳩がいるよ!」

 僕は思わず笑ってしまった。どうやらこの建物の現在の住民は、我々、人類ではなく、鳩をはじめとした鳥類たちになっているらしい。辺りには羽ばたきの音がかすかに聞こえ、天井近くを見上げると、数羽の鳩がこちらを警戒するように羽を膨らませていた。鳩たちは気ままにこの砦の中を住処にしているようで、土壁や窓枠にとまり、時折羽ばたいては、小さな羽根がひらひらと舞い落ちてきた。静かな遺跡の中に響く鳩の羽音が、どこか安らぎを感じさせ、この場所が今も生きているような気さえした。

 砦といっても複雑な構造ではなく、そのほとんどを見終えるのに30分もかからなかった。外に出ると、再び砂漠の光が降り注ぎ、青空が広がっていた。それから、僕は四角い砦の周りをぐるっと一周してみた。青い空に、土色の砦がくっきりと映え、乾いた大地の中にぽつんと佇むその姿は、まるで静止した一枚の絵画のように見えた。

「うん、いい感じ」

 僕はスマホを取り出し、何枚も写真を撮った。その無骨な佇まい、青い空との対比を感じさせる色合いが気に入っていた。次に「タム!一緒に写真撮ろうよ〜」と叫んだ。しばらくして、砦の大扉の陰から「イェー!」とタムの声が返ってきた。

 巨人のような大扉から、タムがちょこんと姿を現し、こちらへ向かってくる。青い空に、広がる砂漠の景色。土色の砦を背景に、クーフィーヤをまとった旅の男が歩く姿は、どこか物語の主人公のようで、絵になるなぁと思わずシャッターを押した。


 写真を撮り終えて、スマホを手元に下した時だった。砦の奥に広がる青空が、不自然に揺らめいたのだ。一瞬のことだったが、それは確かに「揺れた」。まるで蜃気楼のように、空がゆっくりと波打っている。次の瞬間、青空の中に巨大な半透明の鯨のような生き物が浮かび上がり、そのまま優雅に空中を泳ぎ始めた。鯨は青空に溶け込みながら、ゆっくりと泳ぐようにして、砦の上を横切っていく。その尾びれが大きくゆらめくと、青空も一緒に揺らめいたように見えた。

 続いてどこからともなく轟音が押し寄せてきた。この砂の世界には到底似つかわしくない低く重い音。何か巨大なものが、うねりを立ててこちらに迫ってくる。ふと気づくと、それは水の音だった。砦の向こうの地平線から、大量の水が、青空に浮かぶ鯨と共に押し寄せてきているのだ。ごうごうと鳴り響く水流の音が次第に大きくなり、まるで怒り狂った海が砂漠に迫ってくるようだった。

 僕はその場に立ち尽くし、目の前の光景に言葉を失った。砂漠にいるはずなのに、目の前の砦があっという間にに水の中へと飲み込まれていく。水は砦の壁を伝い、屋根の上へと溢れていく。荒れ狂う波が渦巻き、濁流が砦の足元からどんどん流れ込んでくる。タムの姿がかすかに見えたが、もはや声をかける余裕もない。ただ、目の前の圧倒的な水の勢いに、全身が飲み込まれそうな感覚だけが体を支配していた。ごうごうとした音が耳元で響き、周囲の光景が水の中に飲み込まれて、全てがぼやけていく。濁流の渦が僕の体を揺さぶり、全身が水の圧力に押しつぶされる感覚に耐えきれず、僕は目をぎゅっと閉じてしまったのだった。


挿絵(By みてみん)


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