ワディ=ラム
ペトラ観光を終えた翌日、僕たちはさらに南へと足を伸ばし、ヨルダン屈指の砂漠であるワディ・ラムに来ていた。
目の前に広がるのは、正真正銘の砂の砂漠だ。サラサラとした砂が足を取る、まさに誰もが思い描く典型的な砂漠。唯一思い描く砂漠と異なるのは、その砂の色。黄金色ではなく、ペトラの岩々と同じ、赤みを帯びた独特の色合いをしている。その赤い大地が、太陽の光を浴びて複雑な陰影を作り出し、どこか非現実的な美しさを醸し出していた。
僕たちはワディ・ラムでベドウィンのテントに一泊するツアーに申し込んでいた。もっとも、その「テント」とは伝統的なスタイルのものではなく、防寒性に優れた観光客向けのプレハブに近いものだった。少しがっかりしたものの、夜の寒さを思えば利便性には逆らえない。僕たちはその便利さを受け入れ、テントの中へ荷物を置いた。
明日の朝、僕たちは再びアンマンへ向けて北上し、この旅を終える予定だ。今日は、この旅の最終日の夜。短いようで長い、不思議な時間が流れていた。焚き火の周りに集まり、僕たちは夕食を待っていた。乾いた砂の上には色鮮やかな絨毯が敷かれ、その上に腰を下ろしてアラビアコーヒーを味わう。焚き火の明かりが、暗くなりつつある砂漠の中で頼りになる唯一の光源だった。
「それにしても、最後のペトラからの帰り道、大変だったよね」
タムが手元のコーヒーカップを眺めながら笑う。
「あぁ、そりゃあ日没まで長居したら、帰り道は真っ暗になるよね」
僕も苦笑しながら答えた。感動的な日没を見た後、僕たちはスマホのライトを頼りに、山頂から駐車場までの道を歩いたのだった。最初は楽観的に歩いていたが、やがて一人、また一人とスマホの電池が切れていき、最終的には月明かりだけを頼りに進む羽目になった。苦労した道中を思い出し、タムと顔を見合わせて笑う。
風が砂漠を吹き抜ける音が、遠くから静かに聞こえる。昼間の灼熱が嘘のように、夜の砂漠は冷たく肌寒い。僕は両手でコーヒーカップを包み込み、その温かさを味わった。焚き火の揺れる炎を見つめながら、僕はペトラでの出来事を思い返していた。
昨日まで、あれほど鮮明だった白昼夢の記憶は、ペトラを離れると急激に薄れていって、今はもう断片的にしか思い出せなくなっていた。それにしても、不思議な夢だった。
結局のところ、今回は神様のとんだ気まぐれに付き合わされてしまったようだ。僕は心の中で問いかけてみる。
ナバテアの神、ドゥシャラ。きっと彼は、東の果てから変な魚に憑かれた旅人がフラリと自分の土地にやってきたのを見て、ついちょっかいを出したくなったのだろう。まるで気まぐれな猫のように。
神様の気まぐれなら仕方がない。僕たちは、いつだってその気まぐれの前では無力だ。右往左往しながら、それに付き合うしかない。そもそも、僕たちはみんな神様の気まぐれでこの時代に生まれ、それぞれの場所で、それぞれの親のもとで育ったのだ。そこに理由などないし、ただ、そうだったというだけのことなのだ。人間なんて、いつだってそんなものだ。不条理なこの世界の中で、みなが与えられた自分の運命と向き合っている。目の前の現実に向き合い、できることをただやり続ける。それが僕らにできるすべてなのだ。
こう考えるのは、有神論的な解釈だ。でも、現実的に考えれば、中東屈指の名跡であるペトラに訪れ、圧倒的な景色に感動した僕の妄想力が全開になった結果なのかもしれない。日頃の運動不足に加え、急に炎天下ではじまったアクティブな観光活動で、いくつか立ちくらみを経験しただけ……そう結論づけるのが、理性的だろう。
僕はコーヒーをもう一口すすった。
あるいは、こんなふうに折衷案的にも考えられる。人類の歴史も3000年を超え、あまりにも多くのことが積み重なり過ぎてきたのだ。忘れてはいけない思い、覚えておかなければならない出来事。そういう地球そのものが持つ記憶が、とうとう溢れ出したのだろう。そうして溢れ、漏れ出した地球の記憶の一部が、こうして立ち寄った旅人に夢を見せているのかもしれない。
その考えの方が、ただの錯覚や偶然で片付けるより、ずっとロマンがあって僕好みの答えだった。
「さぁ、兄弟。できたぞ!」
焚き火の光に照らされたベドウィンの男性が、満面の笑みで声を上げた。その声は砂漠の静寂を破り、広大な夜の大地に響いていく。僕らは誘われるように立ち上がり、彼の後を追った。
男性が案内した場所には、砂の中にドラム缶が埋められていた。その中には、4段に分かれた円形の網が収められている。彼が慎重に網を引き上げると、ふわりと香ばしい香りが立ち昇り、夜風に乗って僕たちの鼻をくすぐった。蒸された肉や野菜の芳醇な香りが広がる中、僕の胃は期待に応えるように音を立てた。
「ほら、これがザーブだよ。砂漠で受け継がれてきた伝統料理さ」
男性は誇らしげにそう言いながら、網の上に並んだ料理を手際よく皿に取り分けていく。大ぶりの肉、しっとりと蒸し上がったジャガイモやニンジン、艶やかなナス。どれも香りだけでおいしさが伝わってくる。皿を受け取ると、僕らは再び焚き火の元へと戻った。焚き火の暖かなオレンジ色の光が料理を美しく照らし、その香りがさらに食欲をそそる。
「ホホㇹ、これ、すごくおいしそうだね!」
ムハンマドが目を輝かせながら一口頬張り、すぐに感嘆の声を上げた。
「本当においしいな。野菜の甘みがすごい」
僕も一口食べて思わず頷く。肉は驚くほど柔らかく、口の中でほろりと崩れる。野菜はそのままの甘さが際立ち、シンプルな調理法が素材の魅力を最大限に引き出していた。
焚き火のはじける音が静かな夜の砂漠に響く。周囲は静寂に包まれており、耳に届くのは焚き火のはじける音と、誰かが時折皿にスプーンを当てる音だけだ。
皿の中身が空になる頃には、焚き火の熱と料理の余韻が僕らを包み込み、砂漠の寒さもどこか遠くに感じられていた。食事の後の静けさが、砂漠という場所に不思議な温かさを与えていた。
ふと顔を上げると、空には無数の星が瞬いていた。満天の星空が砂漠の闇を優しく照らしている。どこまでも広がるその光景は、見上げる者を包み込むようだった。
砂漠の夜空は息をのむほど美しい。科学的に言えば、砂塵の影響で山の上ほどクリアには見えないはずだ。しかし、そんな理屈を忘れさせるような幻想的な輝きがそこにはあった。星々が降るように瞬くその光景は、日常では決して味わえない非現実の中に僕を引き込んでいく。
「アンマンに戻ったら、タムは帰国かい?」
僕は星空を見上げながら静かに尋ねた。
「あぁ。もう予定よりもだいぶ長く旅をしたからね。そろそろ帰ろうと思ってる。ノブは?」
タムの声は、どこか名残惜しそうに響いた。
「うん、僕もそろそろ次の国に行くよ。ただ、まぁいろいろあるから、タムよりはもうしばらくヨルダンに居るかもね」
そう答えると、タムは僕の顔をじっと見て、ふと微笑んだ。
「ずいぶんと、すっきりした顔をしているね」
「うん。なんかね。夢のお告げで神様にあったんだよ」
冗談めかして言うと、タムは僕がまた奇妙な話をしていると思ったのだろう、にやりと笑った。
「それで、なにかわかった?」
「いや、なんにも」
僕は肩をすくめて答えた。
「まったく何にも?」
「いや、そういうわけじゃないさ。なんか色々あった気がするけど、なにせ夢だからさ。ぼんやりとして、あんまり覚えてないんだ」
焚き火の炎が静かに揺れる。しばしの沈黙が流れた後、僕は口を開いた。
「長く旅をしていると、次から次に新しいことがやってきて、帰った時には見たことの半分も覚えていないかもしれないな」
「半分も覚えていれば、十分だよ」
タムがまたにやりと笑っていった。その笑顔を見て、僕も笑った。
この旅のことは、きっと忘れないだろう。
「さて、そろそろテントに戻るかな」
タムがゆっくりと立ち上がり、夜空を一瞥した。その動作には、名残惜しさとどこか満足したような余韻が混じっていた。タムの言葉に、僕はしっかりと頷いた。
星空は、まるで空全体が無数の宝石で埋め尽くされたかのようだった。夜風が頬を撫で、焚き火の灯りが少しずつ弱まる中で、僕は砂漠の夜の静寂に耳を傾けた。この旅の記憶は、時間がどれほど経っても、きっと僕の心に残り続けるだろう。僕は、テントへと戻る友の背中に、声をかけた。
「じゃあ、また。世界のどこかで」