盗れない宝物
日没はゆっくりと始まった。
空は赤い光に染まり、太陽は山脈の向こうへとゆっくりと沈んでいく。その様子はまるで、燃え盛る炎が大地の奥深くに溶け込んでいくようだった。刻一刻と変化する空の色が、僕らの目の前に広がる景色をさらに美しく、そして神秘的に演出していた。
僕らがたどり着いたのは、神殿からさらに山を登った切り立った崖の頂上だった。そこからは向かい合う山脈の連なりが一望できる。午後から夕方にかけて険しい山道を登り続け、ようやくたどり着いたこの場所には、荘厳さと静寂が満ちていた。強い風が吹き荒れ、立っているだけで身体を持っていかれそうな勢いだったが、その冷たさがむしろ心を研ぎ澄ませるようだった。
「座ったほうがいいね」
僕らはそれぞれ気に入った場所に腰を下ろし、言葉少なに広がる景色を眺めた。
目の前に広がっているのがシャラ山脈だ。鋭い岩肌が露わになったその荒涼とした山々は、僕が育った日本の緑豊かな山々とはまったく異なる景色だった。生命の豊かさを感じさせる日本の山々とは違い、ここにはただ厳しさがある。砂漠の乾いた広がりとはまた違う、容赦のない自然の厳しさがそこにはあった。
息を呑むとは、このことだろう。
僕は目の前の景色に吸い込まれるような感覚を覚えた。ゴツゴツとした山々と沈みゆく太陽だけが、この空間を支配している。まるでここは僕と太陽が一対一で対話を交わすためだけに用意された場所なのだと感じられた。誰が決めたこともなく、おそらく人類がここに住み始める前から、ここは神聖な場所だったのだろうと感じた。
「ここには神がいるね。古の神が」
僕がつぶやくように言うと、タムがすぐに応えた。
「あぁ、間違いないね」
僕は目を閉じ、白昼夢で見たナバテア最後の王を思い浮かべた。シャラ山の主、ドゥシャラ。ナバテアの人々が畏怖し、愛した彼の姿が、この山々であり。それは今でも何も変わっていなかった。僕には今でも十分にその存在が感じ取れるような気がした。
「あ、見て。何か動いた」
タムの声に顔を上げる。彼が指さす方向を目で追うと、遠く崖の先で何かがぴょんと跳ねたように見えた。あたりは次第に暗くなり、形はぼんやりとしているが、あの黒猫だとすぐにわかった。夢の中で幾度となく姿を見せたあの猫だ。
「猫かな?」
ムハンマドが首を傾げて言う。その声にはほんの少しの驚きと興味が混ざっている。
黒猫は一度だけこちらを振り向くと、そのままぴょんぴょんと崖を駆け下りていき、すぐに見えなくなった。僕たちは誰も言葉を発せず、その後ろ姿をじっと見送った。
「いっちゃったね」
タムが静かに言った。
「うん。行っちゃった」
僕は小さく頷いた。
太陽は山々の向こうへ消えようとしていた。その最後の光が空を薄紅に染め、紫色の闇がじわじわと迫り来る。空と大地の間のわずかな隙間が、燃えるようなオレンジ色に輝いている。その光景は、まるで世界が自分たちを包み込むように変化しているようだった。
なんとなく、この場所なら、彼らのような存在に声が届くような気がした。
「今回の白昼夢はなかなか面白かったよ」
僕は沈みゆく太陽に向かって、日本語で独り言をつぶやいた。風がその声を運び、どこか遠くへ消えていく。
「また、面白いのを頼むね。」
その瞬間、太陽がきらりと強く光ったように見えた。宙で弧を描き、跳ねる魚のような影が一瞬だけ目に映った。すぐに見えなくなったそれは、今回は本当にただの見間違いのような気がしたが、ただ、心の中には妙な温かさが残った。
日没の最後はほんの一瞬の出来事だった。
太陽が消え、山々に深い影が降りる。風が乾いた砂の香りを運び、夜がこの場所を静かに包み込む。
僕は立ち上がり、最後にもう一度、遥か遠くの山並みを見つめた。何かを確かに心に刻みつけるように。




