安宿を飛び出して
ちょうど、拡声器から流れてくる朝のアザーンの、その最後の一節が読み上げられて、響きが町の空へと消えていく時だった。祈りの声が徐々に薄れていき、町の空気がしんと静まり返る。すっかり朝の日差しが差し込んでいて、僕は冷めたコーヒーの最後の一口を飲みこんだ。
「サーラマリコン。おはよーう、友よ!」
アラビア語と英語で、僕たちに声をかけてきたのは、この安宿のオーナー、ムハンマドだ。彼は巨体をゆっくりと揺らしながら、満足げな笑顔を浮かべている。白いトーブ(中東・湾岸諸国にみられる真っ白でゆったりとした男性用民族衣装)は体の輪郭を柔らかく包み込み、ほのかな香水の香りが漂ってきた。その顔はまるで仏のような穏やかさをたたえ、柔和な表情が彼の人柄をよく表している。でっぷりとした体型のムハンマドだが、どことなく子供のような無邪気さがあり、その上機嫌な雰囲気に僕たちもつられて笑顔になった。バックパッカー向けの安宿を営んでいることもあり、宿にいるアラビア人の中では一番に英語が達者で、よく通訳もしてくれていた。
「今日は、出かけるんだろう?気を付けて行ってくるんだよ、友よ。ホホホ!」
彼は、アザーンの余韻が残る静かな宿で、一人だけ上機嫌に高笑いを響かせている。
「うん、夕方には帰ってくると思うよ」
僕は答えながら、ムハンマドの満面の笑顔に少し気後れしてしまう。
「車で行くんだろう?昨日、レンタカーを借りていたね」
ムハンマドが少し心配そうに尋ねると、僕は頷いて「そうなんだ。ドライブ、ドライブ」と簡単に返した。
「ホホホ、いいねぇ。ドライブ、ドライブ!」
彼はハンドルを握るジェスチャーをしてみせ、僕もタムも思わず笑ってしまった。ムハンマドは満足げに笑顔を浮かべながら、事務所兼自室へと戻っていった。普段は機嫌の良いムハンマドだが、宿泊代を値切ろうとした時には真顔にさせてしまったことがある。あの真顔はさすがに印象的で、僕はこの宿では二度と値切る予定はない。
「さて、そろそろ支度をするかね」
僕はタムに声をかけたが、彼は既にすっかり支度を終えている様子で、アウトドア用シューズの靴ひもを結びなおしながら、すっきりとした笑顔で「準備万端だよ」と軽く頷いた。彼はいつもきちんとしていて、隙がない。
「な〜に〜を持っていこうかな」僕は荷物をかき集めながら、ふざけて言ってみせる。
「サングラスはあったほうがいい。砂漠の日差しは強烈だからね」とタムがアドバイスしてくれた。
「あぁ、なるほどね」そう答えつつ、僕は自分のバックパックを漁った。もともとの旅の荷物は少ないし、僕の荷支度だってすぐに終わる。デイトリップだからといって、持っていくものはいつもと大して変わらない。財布とスマホがあれば、たいていの事はどうにかなる。それに、2リットルの水のボトルだけは必須だ。この国では小まめな水分補給は欠かせない。
「お、これもこれも…」
バックパックを漁り終えると、ベッドの端にぶら下げてある大きな正方形の布に手をかけた。これは、こちらに来てから土産物屋で購入したカフィーヤという中東のターバンだ。白と赤の伝統的な模様が入っていて、日差しからも砂風からも守ってくれる。そういった機能的な利点もあるが、僕がこれを着用する主な理由は、単純に気分が上がるからだ。カフィーヤを頭に巻くと、なんだか砂漠の旅人らしさが増して、心が少し引き締まるような気がする。
ルナが僕たちの支度を興味ありげに見つめているのが視界に入る。彼女は優雅にしっぽを巻き、まるで「お出かけ?」とでも聞くように、じっとこちらを見上げている。僕が彼女に軽く手を振ってみせると、ルナはそれに反応して、ふわりとしっぽを揺らして応えた。僕とタムは朝の淡い光が差し込み始める中、旅支度を終えて、いよいよ出発の準備が整った。
僕たちが泊まっている安宿は、町の古びた通りに面したボロいアパートの二階に設けられていた。建物は長年の風雨にさらされて色褪せた黄色い外壁が剥がれかけており、ところどころに亀裂が入っている。正面には手作り感満載の看板が掛けられており、ペンキで書かれた「HOSTEL」の文字が、やけに雑然とした印象を与えていた
安宿の細い階段を降りると、玄関には完全に錆付いたドアがあり、完全に閉じることのないこれは、ドアというよりも”つい立て”であった。それでも、どこかしら温かみを感じさせるのは、ここに泊まった旅人たちの足跡が刻まれているからかもしれない。階段を降りきると、目の前にはタムが昨日借りてきたレンタカーが路上に停められていた。アパートの前には駐車場なんかはなくて、砂っぽい細い坂道が続いていて、舗装もボロボロだ。そこに、タムが手配した黒いセダンが路駐してあった。セダンは、街の背景に馴染んでしまうほどくたびれた年代物で、かすれた塗装の上には小さな傷が無数についていた。ところどころに錆びが浮き出ており、特に車の側面には擦った跡が残っていて、車の年季と、この国の交通ルールの混沌さを窺い知ることができた。
車を見て、僕はふと疑問が浮かんでタムに尋ねる。
「これってマニュアル?えっと、つまり、オートマチックではない」
僕は少し不安げに尋ね、言葉と共に手でギアチェンジをするジェスチャーをしてみせた。カタカナ言葉が英単語と一致しているのかはわからないが、意味は伝わったようだ。タムは小さく頷き、「イエス」と答えた。
「うん。僕は、いざとなったら運転するよ」
僕がそう言うと、タムが気の抜けた笑いを漏らした。どうやら彼は、僕が運転できないことを最初から想定していたようだ。彼はサングラスをくいっとあげながら、運転席のほうへと足を進めた。僕は少し気が楽になりつつ、助手席のドアを引いた。ドアを開けるとシートカバーは使い込まれて色あせていて、シートの縫い目の緩んだところからは、奥の黄色いスポンジがうっすらと顔を出していた。窓も手動式で、くるくると回して開閉する古いタイプだ。
「いざとなったら、お願いするよ。運転が好きなんだ。気にしないで助手席に乗っていてくれ」
タムは笑いながらハンドルを握り、少し高揚した様子で運転席に腰を落ち着けた。車のエンジンは、キーを回すと少しうるさく唸りを上げて始動した。低い振動が車体全体に伝わり、しばらくブルブルと震えるように音を立てていたが、タムがアクセルを軽く踏むと、かろうじて車が安定したようだった。この町の埃っぽい通りを走り出すには、むしろこの古びたセダンがぴったりかもしれないと感じながら、僕は助手席に腰を落ち着けた。