エド=ディル
気が付くと、僕は階段を登り切っていた。最後の段を踏みしめた足元には、ぽつりぽつりと黄色い花が咲いている。夢の中で見た一面の花畑には遠く及ばないが、その鮮やかな黄色は、赤茶けた砂岩の風景の中でひときわ目を引いていた。
神殿とは反対側のわきに目を向けると、簡素なテントの下にバラックのような露店が一軒立っていた。そこでは、ベドウィンの商人が登山客を相手に冷たい飲み物や簡単な軽食を売っているようだった。プラスチック製の椅子がいくつか並べられ、数人の観光客たちが腰を下ろして休憩している。そのざわめきが、この山頂にほんの少しだけ現実感を与えていた。
当然のことながら、そこにナバテアの王はいなかった。僕を迎えたのはティムとムハンマド、それにロバを連れてきたベドウィンの少年たちだった。
目の前には「修道院」を意味するエド=ディルと呼ばれる遺跡がそびえ立っていた。その巨大な神殿は、夢で見たものと雰囲気こそ似ているが、現実の神殿は年月を重ねた風化の跡を残していた。それでもその堂々たる姿は、今も訪れる者の心を奪う迫力を持っている。僕はしばらくその場に立ち尽くし、岩山を削り出して造られた壮大な建築をじっと見上げた。当時の建築技術の高さを物語るその姿には、かつてのナバテア王国の栄光が確かに宿っていた。
エド=ディルは他のペトラの遺跡とは少し異なった趣を持っている。「修道院」という名が示すように、この遺跡からは十字架が発見されており、宗教的な影響の変遷が色濃く刻まれている。この地がかつてローマ帝国の支配下にあった時代、迫害を逃れた初期キリスト教徒たちがここに身を隠していたという説もある。ナバテアの神々が信仰されていた時代は遠い昔のこととなり、ローマ神話の神々、イエス、そしてアッラーへと、時代とともに人々の信仰は移り変わっていったのだ。
「お疲れ様!」
ティムの明るい声が耳に届く。振り向くと、彼とムハンマドが手を振って迎えてくれていた。
「お待たせ!ティム、どれくらい待った?」
「う~ん、10分ぐらいかな」
「そんなに?ごめんね」
「全然気にしてないよ。さすがにここまで来るときついよな」ティムが笑いながら肩をすくめた。
タム達の周りには観光客の捨てた食べ物を目当てに集まる猫たちが何匹かうろついていた。その中に、さっきの黒猫が紛れているのではないかと目を凝らしてみたが、そこにいるのはどれも違う猫たちだった。僕は少し肩の力を抜き、短いため息をついた。
ムハンマドはロバから降りていて、僕の肩を軽く叩いた。
「ノブ、よくやった!ホホㇹ、」
「ありがとう、でも、正直きつかったよ」僕は少し笑いながら答えた。
「さ、最後のひと登りだ」
ティムがまるでスポーツチームのコーチのように言う。
「え~、ちょっと休ませてよ!」僕は疲れた体を伸ばしながら答えたが、彼は容赦しない。
「ダメダメ、早くしないと魔法の時間を逃しちゃうぞ」
「ほら、ここまで来たら、あともうちょっとよ」ムハンマドも加勢するように言う。
僕は渋々、水を一口飲んで立ち上がった。
「わかったよ、行くよ」と僕はしぶしぶと思い足を引きずって歩き出した。
二人に腰を軽く押されながら、僕は休む間もなく再び最後の山道を登り始めた。
「ま、受け取るように言われたし、見逃すわけにはいかないよな」と心の声でつぶやいた。
夢で言われたナバテアの宝に、僕は無意識に少し胸を高鳴らせていた。




