夢の宴
体が重い。夕暮れの風が頬を撫でる。熱気が引き、空気は少しひんやりしている。ぼんやりとした意識の中で、誰かの声が耳に入った。
「起きたか?」
その声に応えるように、私は体を起こした。地面に手をつき、重い頭を抱えるようにして座り直す。目の前には、疲れ切った表情の男が立っていた。彼は目を細め、私をじっと見ている。
「あぁ、寝ていたようだ」
私はこめかみを押さえながら、まだぼんやりとする頭で問いかけた。
「どうなった?」
男は短くため息をつき、ゆっくりと言葉を選ぶように話し始めた。
「さきほど、会議があって、俺も参加させてもらったよ。明日、降伏だ」
その一言で、私の中に重い何かが落ちたような感覚があった。彼の表情は悲痛そのもので、言葉の裏に隠しきれない無念が滲んでいる。
「そうか……」
声が出る。だが、それ以上の言葉は続かなかった。何を言えばいいのか、わからない。
「お前も、大変な時に来ちまったな」
彼の口調には、どこか申し訳なさが混ざっている。
「いや、こちらこそ光栄だよ」
私はそう返すが、自分の言葉がどこか空虚に響くのを感じた。
彼は視線を上げた。私もつられるようにして顔を上げると、赤茶色の岩山の上から一本の煙が、夕暮れ空へとまっすぐ伸びているのが見えた。その煙は薄く、しかし不思議な存在感を持っている。
「いま、国王陛下が最後の儀式を行っておる。我々の神に、すべてをご報告なさっているのだ」
男の声は静かで、儀式への敬意と敗北の無力感が入り混じっていた。
祭壇のある岩山を見上げる私たちの背後には、ペトラの街が広がっていた。ついこの間まで、賑わっていた街を、今や敗戦の影が全体を覆っている。絶望が人々の間に深く染み渡り、空気そのものが重苦しい。
ふと視界の端に動くものがあった。足元を通り過ぎる影に目をやると、いつか見た黒猫が一匹、ゆっくりと近づいてきた。その動きは落ち着いていて、まるでこちらを観察しているかのようだ。どこか寂しげなその様子が目に留まり、私は思わず膝を折って手を伸ばした。
猫は逃げることもせず、私の手のひらの下に頭を差し出してくる。その毛並みは砂埃にまみれているが、温かさと柔らかさが伝わってきた。しばらく撫でていると、猫はくぐもった声で小さく鳴いた。その声に促されるように、私は何気なく呟いてしまう。
「なぁ、夢の中くらいは、もう少しハッピーエンドでもいいんじゃないか」
自分でも口からでた言葉がどういう意味をなのかはわからなかった。ただ、なにかが自分に乗り移ったようで、不思議な心地がした。その言葉に反応するかのように、黒猫は一声「ニャー」と鳴くと、ゆっくりとその場を去っていった。どこへ向かうでもなく、ただ静かに歩き去る後ろ姿を目で追いながら、私はふとその存在が何か象徴的なものに思えて仕方なかった。
「よし、飯にしよう」
私は立ち上がり、手を叩いて周囲に響く声を出した。重苦しい空気を払拭するために、努めて明るい声を作った。
「国王陛下が降りてくるまでに、盛大な食事でも用意しておこうじゃないか」
その声に反応して、男が頷いた。
「そうだな。それくらいしかできることはないが、やろう」
私たちはその場にいる人々に声をかけ、できる限りの材料を集めることにした。手に入るのは野菜や果物、わずかな量の肉に干したハーブ類。贅沢とはほど遠いが、こうした状況では十分すぎるほどの食材だった。
私は集めた野菜をひとつずつ手に取り、丁寧に切り分けていく。手にしたナイフが岩に映える夕陽を受けて、かすかに輝いていた。切った野菜を油で揚げていくと、じゅっと音を立てて香ばしい匂いが立ち上る。その匂いが少しずつ周囲の空気を変えていくのがわかった。
「これは、お前さんの国の料理かい?」
隣で材料を運んでいた男が不思議そうに尋ねる。彼の顔には疲労の色が濃く出ていたが、その目は興味を示している。
「いや、そうじゃないんだ。ただ……なんとなく、この国の未来につながるような気がしてな」
私はそう答えながら、鍋に材料を次々と並べていった。なぜこの料理の作り方を知っているのか、なぜこの料理を作ろうとしたのかは、自分でもわからなかった。ただ、先ほどの謎の言葉が口から出たのと同様に、不思議と体が動いていくような感覚だった。
鍋に蓋をし、焚き火の上につるすと、男も満足げに頷いた。
「あとで陛下に食べてもらおう。ささやかではあるが、せめてもの心意気だ」
気が付くと、十人前後のナバテア兵たちが、一緒に料理をしていた。皆の表情は、心なしか、先ほどより晴れやかだった。国がなくなっても、この人々たちは、なくならない。こうして、毎日、食事をして、睡眠をする。生きていく日々は続いていくのだ。
調理が一段落したころ、再びあの黒猫が私の前に現れた。こちらをじっと見つめるその瞳は、相変わらず何かを知っているかのように思える。
「ニャー」
猫が小さく鳴いた。その声はどこか満足げで、微笑んでいるようにも感じられた。猫はその場に立ち止まることなく、またゆっくりと歩き去っていった。その姿が夕暮れの赤い空に溶け込むように見えた瞬間、私の胸に静かな安堵が広がった。
そして私は、この不思議な時間が終わりに近づいているのを感じた。目を閉じると、夕餉の支度の喧噪は聞こえなくなり、私の意識は、どこか遠い所へと引っ張られていくのだった。




