深夜前のロビー
「じゃあ、明日はもう一度、ペトラだよ。8時起床ね」
「うん。アラームかけたよ」
「鍵持ってたよね?僕とムハンマドは先に寝てるよ」
「わかった」と言いながら、僕はポケットから鍵を取り出してタムに掲げて見せた。タムは軽く手を振りながら、廊下の向こうに消えていった。
夜のホテルのロビーは静かだった。古びた家具が並ぶエントランスは、ところどころくすんだ壁や剥がれたペンキがその年季を物語っている。狭いソファに腰を下ろすと、僕はスマホを取り出し、画面をスライドさせながら考え事を始めた。
スマホで調べていたのは、ナバテア王国の歴史だった。画面の中には古代王国の断片的な情報が並んでいる。昨晩も同じように調べた内容だが、頭の中を整理するためにもう一度確認していた。そもそもナバテア王国の歴史についての資料は驚くほど少ない。交易で栄えた古代王国が、どのように滅び、どのようにローマの一部となったのか、詳細を語る一次資料は乏しい。
中でも気になっていたのは、その最後の王、ラベル2世のことだ。資料によると、ラベル2世は紀元106年に逝去したとされている。その直後、ナバテア王国はローマ帝国に併合され、属州「アラビア・ペトラエア」として新たな歴史を刻み始める。となると夢の中で言っていた、”亡くなった先代の王”というのがラベル2世で間違いなさそうだ。
ラベル2世には子息がいたのだろうか?それらしい記録には何も記されていない。もしかしたら、本当に息子がいて、ローマに最後の抵抗を試みた可能性もあるのではないか、そんな仮説が頭をよぎる。
さらに気になるのは、夢の中で若き王が名乗った「ドゥシャラ」という名前だった。それはシャラ山脈の主を意味する、ナバテア神話の中心的な神の名前だ。僕たちが博物館で見た銅像もドゥシャラ神をたたえるためのものだった。その神の名を、王子が自ら名乗るだろうか?
確かに、歴史上、神々の名前を称号として受け継いだ支配者がいた例はある。しかし、そういった事例と同じように考えてよいのだろうか。そもそも、ラベル2世に息子が存在したかどうかすらもわからない状況だ。
すこし、ここ最近の一連の白昼夢について考えてみた。今回は、珍しいことに立て続けに3回もみている。それも、僕の意識がはっきりとしている、明晰夢のようなものまで見るようになっていた。これは今までの白昼夢とは違う。
それと、今回は白昼夢の前にクナトを見かけていない。ペトラに来れば、何か手がかりがつかめるかと思ったが、この二日間、ついぞその姿を見ることはなかった。
はじめこそ混乱した、僕の意識のある夢の世界だったが、2回も見たことで、いくつか法則を考えることができた。夢の内容は、確かにその土地を舞台にした、過去の場面ではあるのだが、それは同時に夢としての性質、不条理だったり、混沌としていたり、をもっていて、あるいは僕の記憶や思いに引っ張られる。
はじめに目を覚ましたときは、現実では見れなかったアラビア=オリックスを見た時だった。個人的な見逃したという思いが、夢の内容をあぁして変えていったのかも知れない。2回目は、国王からドゥシャラという名前を聞いた時だ。思えば、その名前を聞いたとき、僕は明確に夢の世界に違和感を覚え、目が覚めた気がする。、
史実から遠のくと目が覚める気がする。
さかのぼれば、アンマンで猫と追いかけっこをしたのは明らかに、白昼夢というよりは幻覚だった。となるとやはり、この一連の白昼夢はクナトではない誰かによるもなのだろうか。
夢の内容を思い返しているうちに、その中に出てきた様々な表情が思い返された。それにしても、あの戦場で出会った負傷兵たちはどうなったのだろうか。夢の中とはいえ、血を流し倒れていった彼らの姿は今も目に焼き付いている。医療が未発達だった2000年前の世界で、彼らが生き延びる可能性は極めて低い。そんな時代の現実を目の当たりにして、僕は改めて、現代という時代に生きるありがたさを思い知った。風邪薬、消毒液、抗生物質――そんな日常に溢れるものも、すべて先人たちの努力の積み重ねの上にあるのだ。
そして僕が今、この21世紀に生きているという事実は、そんな長い歴史の積み重ねが作り上げた奇跡のようなものだ。白昼夢で体験する古代の断片を通じて、僕はこの時代に生きていることへの感謝や意味を再確認しているのかもしれない。
ブブッ――
スマホが小さく振動する音が、静まり返ったエントランスの空気を揺らした。画面を覗き込むと、アンマンの比奈さんからのメッセージが届いていた。
ーペトラはどう?マクルーバおいしかったよ~。ー
短いメッセージに続いて、多彩な家庭料理が並んだテーブルを背景に、友人たちが笑顔を浮かべる集合セルフィーの写真が添えられている。テーブルの中央には、メインディッシュとして据えられたマクルーバが鎮座していた。香ばしそうな焼き目がついたライスの上に、しっかりと詰まった具材が層をなしていて、一目で手間がかかった料理だと分かる。
「くそ~、食べ逃したなぁ……」
僕は思わず、独り言を漏らしてしまった。
写真を見ながらふと笑みがこぼれる。返信するためにスマホの写真フォルダを開き、今日エル=カズネで撮影した写真を見返す。一番よく撮れたと思う一枚を選び出し、さっそく送信した。
ーペトラ、最高です。明日も行ってきます!ー
と送り返すと、すぐさまグッドマークが帰ってきた。
アンマンの安宿で、オマルやジャードと一緒にキッチンに立ったりいくつか触れる機会があった。地元の食材を使ったスパイシーな煮込み料理や、ふわっと焼き上げたパンを頬張った記憶が鮮明に蘇る。しかし、その中でも「マクルーバ」だけは作ったことがなかった。
マクルーバ――逆さにした鍋ごとひっくり返して仕上げる豪快な一品。その名前を聞くだけで、スパイスの香りとともにほくほくのご飯が現れるような気がする。僕はスマホを手に取り、「マクルーバ レシピ」と検索を始めた。
出てきたレシピをいくつか眺めると、意外に工程が多いことに驚く。鶏肉をスパイスでマリネし、ナスやジャガイモを揚げ、それらを鍋に順番に重ねて炊き込む。
「これは時間がある時に挑戦だな……」
ふと笑いながら、画面をスクロールしていると、次第に眠気が襲ってきた。あくびが一つ漏れる。目の奥がじんわり重い。スマホを置き、体をぐっと伸ばして時計を見ると、すでに夜も遅い時間だった。
「そろそろ寝るか……明日はペトラの最深部だ」
自分に言い聞かせるように呟きながら、ソファから重い腰を上げる。明日行くペトラの奥深い遺跡――そこにはどんな景色が待ち受けているのだろう。古代の繁栄の痕跡か、それともまた白昼夢のような奇妙な体験があるのか……頭の片隅でそんな考えが渦巻く。
廊下を歩きながら、ぼんやりとここ最近の夢のことを思い返した。この調子なら、きっと明日も何かを見ることになるだろう。砂漠の風景の中に、時を越えた記憶が現れるように――。
「ま、もう一回くらい……見そうだな」
大きなあくびをしながら、そんな独り言を呟くと、僕は二人が眠っている3人部屋の寝室へと向かった。




