誘い ~砂漠の砦へ~
「コーヒーを、ありがとう」
僕はもう一度、タムにお礼を言った。
「どういたしまして」
さわやかな笑顔でタムが答える。小麦色の肌に、短く刈り上げた髪型がさわやかさを際立たせている。旅の間にだらしなく伸ばしていた僕の長髪とは対照的だ。タムは手際よくコーヒーのカップを片付けて、持ってきたリュックを椅子の隣に置いた。どうやら準備はすでに完了しているらしい。
「結構遠いんだっけ、その、東の砂漠にある砦って」
僕は気になって尋ねた。
「だいたい、車で2時間だけど。僕たち、いろいろ寄り道するからね」とタムが言って、肩をすくめる。
僕は携帯電話を取り出して、地図アプリを起動した。画面にピンだらけの周辺地図が表示される。これは僕の癖みたいなもので、行ってみたい場所を片っ端から登録しているせいで、地図アプリは虫ピンだらけになっている。町のミントティー屋やマンサフ屋(マンサフは羊肉の炊き込みご飯みたいなもので、ヨーグルトソースで食べる伝統料理。うまい)、郊外の国立公園やらのピンをかき分けて、本日の目的地をタップして表示させた。
「あぁ、2時間か。意外と近いんだね。もっと遠いと思っていたよ。えっと、カッサ=アル=ハラーナ」
軽く道のりだけ確認して、さっとアプリを閉じた。どうせ今日のお昼には見に行くんだ。何十枚も写真を見る必要もない。
「カッサ=アル=ハラーナ」
僕は目的地の名前をもう一度、口に出してみた。アラビア語でのカッサは、英語のキャッスルと同じで、つまりここはアルハラーナ砦、というわけだ。砂漠の砦。僕はその言葉に少し冒険心が湧いてきて、にやりと笑った。
「そう。カッサ=アル=ハラーナ。きっと観光客も少なくて静かでいい場所さ」
タムがもう一度復唱した。彼は、しゃがみ込んでルナを撫でながら、よさそうだろと言うように、こちらを向いてにっと笑った。
そう。このカッサ=アル=ハラーナは、そこまで有名な観光地ではないらしい。そもそも数日前まで、僕らにとっては名前も知らない場所だった。その場所のことを知ったのは、この安宿のキッチンテーブルで、みんなで晩御飯を食べている時だった。
晩御飯は、とくに決め事をしているわけではないが、外出していなければ安宿のメンバーが自然と集まって、一緒に食べることが多かった。夜のキッチンは少し薄暗く、裸電球が小さな影を落としていたが、それがまたこの場所の趣を引き立てていた。窓を開け放てば、ひんやりとした夜の空気と、どこからか漂ってくるスパイスの香りが入り込んできて、異国の夕食の雰囲気をいっそう感じさせた。
その日の夕食は、ホブス(円形をしたインドのナンみたいな平らなパン。このあたりの主食)をちぎって、僕とオマルが作ったトマトスープに浸して食べるシンプルで質素なものだった。スープにはトマトの酸味が効いていて、ホブスがそれをやわらかく包んでくれる。副菜には近くの店で買ってきたフライドポテトがあり、これもみんなで摘まみながら、トマトケチャップにつけて楽しんでいた。
「ねぇ、明日は肉にしない?」僕は自分で作っておきながら、少し不満のように提案した。
「確かにね。あぁ。フライドポテトじゃなくて、フライドチキンを買って来ればよかった」タムも少し笑って答える。
「てっきり、宿の冷蔵庫にこの間買ったチキンがまだあると思ってさ」と誰かが口を挟んだ。
「卵もなかったぞ」オマルが肩をすくめると、隣のジャードが少し得意気に、「俺、1個持ってるよ」とポケットから卵を取り出して見せた。
「目玉焼きする?」とタムが冗談めかして聞くと、ジャードは慌てて「だめだよ、明日の朝の分なんだから」と首を横に振ってみせた。
皆、別にお金がないわけではないのだが、えてして貧乏性の者たちが集まって生活をしていると、時にはこういう食事になってしまうことも多かった。
「次は、砂漠のほうに行ってみようと思うんだけど、どこかおすすめはあるかな」
明日の食事の話題が終わったところで、僕はふとジャードに尋ねてみた。
「砂漠だったら、ワディ=ラムに行くべきだよ」とジャードは即答した。
「ワディ=ラムは行くつもりだけど、すぐには行けないでしょ。もう少し近場でないかな?」と僕は少し困り顔で返した。ヨルダンで最も有名な砂漠であるワディ=ラムは、ヨルダンの南部に位置し、首都アンマンからだと車で丸一日ほどかかる場所にある。観光名所だけれど、日帰りで行くわけにはいかない場所だった。
「まぁ、この国はちょっと街を離れれば砂漠ばかりさ」とオマルが冗談混じりに言うと、みんなが笑った。
「カッサ=アル=ハラーナ」
突然そういったのは、それまで黙って食べていたハサンだった。ハサンは少し気難しい顔をした年嵩のアラビア人で、昼間はタクシードライバーをしていた。いつも黙々と食事をする彼が突然口を開いたので、僕たちは自然と彼の方に耳を傾けた。
「東の砂漠には、カッサ=アル=ハラーナがあるぞ」と、ハサンは静かに言った。その声には、何か特別なものを教えようとしているような響きがあった。
「カッサ…なに?」と僕が興味を惹かれ、聞き返すと、ハサンは丁寧に「カッサ=アル=ハラーナだ。東の砂漠にある古い砦だ」と教えてくれた。
「へ〜、面白そうだね」と僕は答え、タムも興味深そうに頷いた。
ハサンは、その古い砦が何世紀も前から砂漠に佇んでいることや、かつての貿易商たちが旅の途中で立ち寄っていた場所だということを淡々と話してくれた。その説明を聞くうちに、僕の胸には強い好奇心が湧き上がってきた。有名でシンボリックな観光場所を巡るのも嫌いではないが、やはりこうした人知れず静かな場所で、それでも歴史の名残を感じられる場所には特別な魅力がある。タムも同じように感じていたのか、彼も穏やかに微笑み、ハサンの話に聞き入っていた。
こうして僕とタムの次なる目的地が決まったのだった。