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旅と地球の淡い夢  作者: 旅崎 ノブヒロ
ナバテアへの誘い
28/41

砂に埋もれたあの日々よ

「うぉっと!」

 バランスを崩した僕は、思わずラクダの側に寄りかかりそうになった。

手を伸ばした瞬間、ラクダが首を振り、落ち着いた様子でその大きな瞳をこちらに向ける。その表情がどこか呆れたように見えて、手をばたばたとさせて必死にバランスをとった自分に少し恥ずかしさを覚える。

――戻った。戻ったよね?

 目の前に広がる景色は間違いなく現実だった。あの鮮烈な白昼夢――いや、夢と呼ぶにはあまりにリアルすぎたその体験を振り返りながらも、僕は今この現実の世界にいることにホッとしていた。まさか、あの日見逃したアラビアオリックスの記憶がきっかけで戻ってくるなんて。そんなことを思いながら、心の中で静かに安堵の息をついた。

「どうしたの、ノブ?」

 ムハンマドの声が聞こえて、顔を上げる。明るい声だったが、僕は少しビクッとしながら振り返って、彼を見た。

「なんでもないよ。」

 軽く笑いながらそう答えたものの、内心はまだ、現実に帰ってこれた安堵感でいっぱいだった。

 ふと、手のひらをじっと見つめてみる。肌に日差しが当たり、細かな砂の粒がついているのがわかる。この感触、光の角度、風の冷たさ――これらすべてが現実感を強調する。そして同時に、さっきまで自分を包み込んでいた白昼夢の世界が、まるで霧が晴れるように徐々に遠ざかっていく気がした。見ているときはありありとした現実感があるのに、起きてしまうと、とたんにそれが幻であったことがはっきりわかる。まさに夢から覚めたような感覚だった。

 僕の頭には、昔観た映画の一場面がふと浮かんだ。夢の世界に入り込んだ主人公が、現実と夢の境界を見失い、戻れなくなる恐怖と戦う物語。その映画の主人公の気持ちが、今なら少しわかる気がする。自分も今、現実と夢の狭間に立たされているような気がして、思わずふーっと息を吐いた。

「ノブ、写真を撮ってあげるよ。ホホホ。」

 ムハンマドが楽しげに言いながら、両手でカメラを構えるジェスチャーをして見せた。奥ではタムがセルフィーを撮りながら笑顔を作っているのが見える。彼らの様子は、有名な観光地の興奮した旅行客そのものだった。やはり、こちらの世界ではほんの数秒しか流れていなかったのだろう。二人からは到着したばかりのエル=カズネを満喫しようという意気込みが感じられた。。

「あ、ありがとう。」

 ポケットからスマホを取り出し、ムハンマドに手渡す。

 ムハンマドが写真を撮る準備をする間も、僕の頭の中は先ほどの出来事でいっぱいだった。砂漠の都ペトラ、若い国王、そしてローマ軍の進軍……。どれもがあまりに鮮烈で、まるで本当にタイムスリップしたかのような夢だった。しかし、その出来事の意味や理由をいくら考えようとしても、答えは見つからず、思考は空回りしてばかりだった。

「ホホホ、ノブ、スマ~イル!」

 ムハンマドの朗らかな声に、僕は息を整え、無理やり笑顔を作った。シャッター音が響き、ムハンマドが満足げに頷く。その間にも、夢の中の光景が鮮やかに蘇ってきて、頭の片隅を占拠している。ただ、これ以上その出来事を深掘りしても答えが出るわけではない。僕は静かに胸の奥にその記憶を押し込めた。

 とにかく、今ここにいるのは現実だ。目の前にはエル=カズネがそびえ立ち、耳にはムハンマドの明るい声が届く。タムがカメラを構え、楽しげにポーズを取る姿も見える。そして、頬を撫でる砂漠の乾いた風 。これらすべてが、ここが紛れもない現実の世界であることを確信させる。夢の余韻に浸るのはここまでにしよう。僕は自分にそう言い聞かせながら、二人のもとへ歩み寄った。さっきのは、夢だ。それとも妄想か。どちらでも構わない。それでいいじゃないか。


 ふと、比奈さんが以前話していた言葉が頭をよぎった。「ペトラ遺跡はヨルダン随一のパワースポット」と彼女は笑っていた。もしかしたら、その特別な場所の力が、いつもの妄想力に磨きをかけたのかもしれない。そんな考えが頭をよぎり、僕は自然と口元に笑みが浮かんだ。

 ひとしきり写真を撮り終えた僕らは、ラクダのそばの日陰に再び集まった。砂漠の太陽はまだ容赦なく照りつけていたが、ラクダたちが悠然と影を作って座っていた。

「とりあえず、今日はもう少しこのあたりの住居群を探検してみよう。」

 タムが地図を広げながら提案する。ペトラの遺跡はエル=カズネだけでは終わらない。事前に二人でチェックしていた気になる場所が、まだいくつも残っている。しかし、今日はシークとエル=カズネの観光にかなり時間を使ったこともあって、タムの提案は妥当であった。

 エル=カズネの周辺には、赤褐色の岩壁を掘り出して造られた無数の洞窟状の遺跡が点在している。そのほとんどはエル=カズネのような精巧な彫刻や装飾は施されておらず、むき出しの岩壁にぽっかり開いた岩穴が、静かに砂漠の風景に溶け込んでいる。それぞれの岩穴は、用途も歴史も異なるのだろうが、どれもこの土地に息づいていた人々の暮らしの痕跡を、そのまま時間に刻みつけているようだった。

「見て、あの岩のところ、まだ彫りかけの状態だね。」

タムが指差す先には、岩壁に浅く彫られた模様が見える。それは、完成に至ることなく途中で放棄された作業の名残だろう。中には粗削りの状態のまま、時間だけが流れたことを物語る遺跡もある。それらは未完成のまま残されたというより、時間そのものを封じ込めたような、不思議な感覚を与える。

「これ、当時は何に使われてたんだろうね。」

 タムが岩壁の一つを指さしながら言う。ムハンマドが肩をすくめ、笑いながら答える。

「誰にもわからないね。ただの倉庫だったかもしれないし、あるいはレストランだったかも。でもね、どれもこの土地に生きた人たちが残したもので、何かの意味があって使っていたものね」

 

 周囲を見回していると、先ほど白昼夢の中で見た風景が頭をよぎった。殺風景な砂と岩の景色に、夢の中のにぎやかな光景が重なり合う。今でもまるで、喧噪や人々の声が聞こえてくるようだった。そうだ、あの時見たラクダ小屋はどこだろう。そんな疑問が浮かび、僕は記憶を頼りに似たような横穴を探し始めた。

 ちょうど少し先に、身長ぐらいの高さの岩場が横に長く続いている場所があった。あそこの岩場を利用してテントを張っていたに違いない。近づいてみると、当然、今やその空間は空っぽで、乾いた砂が、照り付ける日差しを跳ね返しているだけだった。 僕は先ほどの鮮明だった記憶をまだ感じていたが、不思議なことに恐怖心はほとんど消えていた。むしろ、それが何か幸運な出来事のように思えてきた。こうして、いろんな目線で観察ができるのも、先ほど見た白昼夢のおかげであるとさえ感じていた。


「明日は博物館と敷地外の遺跡を見に行こう。それから、僕たちが”絶対行きたいリスト”に入れていた、生贄の丘と、山奥にある神殿には明後日行くことにしよう」

 歩きながら、タムが予定を提案する。その声には、彼らしいリアリストさが滲み出ていた。

「うん、そうだね。三日もあるし、初日から飛ばさずに、のんびりいこう」

 僕は軽く頷きながら返事をした。

挿絵(By みてみん)


 そのまま周辺の散策を続けていると、それまで目にしてきたナバテアの遺跡とは明らかに異質なものが視界に飛び込んできた。切り立った赤い岩壁を背景に、巨大な円形の構造物が姿を現す。舞台のような中心スペースを囲むように、扇形に広がる階段状の腰掛が何層にも重なり、頂上へ向かって連なっている。それはまぎれもなく、ローマ式の劇場だった。

 劇場の中央には美しい円柱が何本も並び、そのうちのいくつかは傾いていたり崩れかけていたりするが、それでもなお、当時の壮大な繁栄を今に伝える存在感を放っている。先ほどのエル=カズネが政治・宗教的な中心であったとするならば、おそらくここが集合の場で、文化と娯楽の中心地であったのだろう。岩の赤褐色で出来上がった、ローマ文明特有のこの建築構造が、ナバテア王国がいかにしてローマの影響を受け入れたのかを示しているようだった。

 僕は立ち止まり、その劇場をじっと見つめた。

「これ、ローマの劇場ね」

 ムハンマドが再び誇らしげになりながら解説をしてくれた。

「アンマンにあるのよりは小さいけれど、十分に立派だね」

 タムはカメラを取り出し、さっそくシャッターを切り始めた。

 僕は劇場の全景をもう一度じっくりと眺めた。その形状、石材の配置、舞台の設計。それらは、ナバテアの独自性とはまた別の美しさを持っていた。しかし同時に、ナバテアのオリジナルな文化が、ローマの影響に飲み込まれていった歴史を感じさせるものでもあった。


「それにしても、どうしてここにローマの劇場が?」

僕はその疑問を口にし、ムハンマドの方を振り向いた。

ムハンマドは、少し肩をすくめながら答える。

「ホホホ……ナバテアはね、最後にはローマにやられてしまったね。あの当時、ローマはとてもとても大きな帝国だったね。ナバテアの交易路や資源狙って、ついにナバテア王国を支配下に置いたのさ」

 彼の声は冗談めかした口調で、そこに寂しさや悔しさなどは混ざっていなかった。ただ、どこか達観したような響きがあり、歴史の必然としてその出来事を受け入れているようだった。


「支配下に置くって……じゃあ、この劇場はローマ人が作ったの?」

 僕は劇場の構造を改めてじっくりと見上げながら尋ねた。

「そうかもしれないね。だけど、ナバテアは支配されたけど、滅びたわけじゃない。ナバテア人はローマの技術を受け入れて自分たちのものにしたかもしれない。交易の民は、よいものを取り入れるのが得意だからね」

 その言葉を聞いて、夢の中で感じたローマ軍の圧力が脳裏をよぎる。静まり返った広間、若い国王の毅然とした態度、迫り来るローマ軍の恐怖――それらが一瞬、現実と錯覚するほど鮮やかに浮かび上がった。僕の心拍数がわずかに上がる。

「最後は……ローマに」

 僕はつぶやくように言葉を漏らした。その言葉の響きが自分の耳にも妙に重たく感じられる。

 目の前の劇場を見上げながら、僕の心はどこか複雑だった。ローマ文化がもたらした洗練された建築の美しさに感嘆しつつも、それがナバテアの独自性を飲み込み、同化させてしまった痕跡であることに気づかされる。劇場の円柱のひび割れ一つ一つが、ナバテアがどのように変わり、そして支配されたのかを物語っているようだった。

「ここでは……どんな演目が上演されていたんだろうね。」

 タムがカメラの画面を覗き込みながら呟いた。

「さあね。」ムハンマドが答える。「きっとローマ風の演劇だったんじゃない?」

 僕は劇場を囲む階段席を見渡しながら、そこに座って笑い声を上げていたであろう観客たちの姿を思い描いた。そしてその光景の中に、夢の中で出会った国王の姿が一瞬だけ浮かんだ気がした。若き国王がこの劇場で何を見たのか、何を考えたのか――そんなことが頭をよぎる。

 静かに吹く風が、劇場の石材をかすかに撫でる音を立てた。時を超えて立ち続ける劇場の前で、僕は立ち尽くしたまま、複雑な思いに浸っていた。


挿絵(By みてみん)

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