エル=カズネ
おっとっと。
突然足元が不安定になり、僕は慌ててバランスを取ろうと後ろに仰け反った。踏み支えた足が砂を軽く巻き上げ、ギリギリで転倒を免れる。胸をなでおろす暇もなく、姿勢を元に戻す。動揺して高鳴る鼓動とともに、急に明るくなった気がした。あまりの眩しさに思わず目を細め、しばらく目を瞬かせる。脳が混乱しているのがわかる。昼間に映画館で映画を見た後、外の光に目が追いつかないあの感覚に似ている。
さっきまで見ていたものが妙に現実感を持っているせいだろうか。これが、白昼夢だと気づくのに少し時間がかかった。
「あぁ、なんか……白昼夢見てた……」
自分でも呆れるように、思わず呟いた。頭をポリポリとかきながら、大きく息を吐く。心臓がまだ、激しく脈を打っている。脳裏に焼き付いた景色が、現実に戻ってくるのを拒むかのようにしつこく残像を主張している。足元の感覚を確かめながら、数歩砂地を踏みしめると、ようやく身体の震えが収まった気がした。
「おぉ〜い!」
「ホホホ〜、ノブ〜、置いてっちゃうよ〜!」
少し離れたところから仲間たちの声が聞こえた。タムとムハンマドだ。その明るい声にほっとする。現実にしっかりと引き戻される感覚だ。僕は大声で、「すぐ行く〜!」と応えた。
リュックを肩から下ろして、中をまさぐる。手探りで見つけたミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、キャップを勢いよくひねる。喉が乾いている。砂漠の空気は吸い込むだけで水分を奪っていくようだ。二口、いや三口、めいっぱいゴクリゴクリと飲むと、乾き切った身体がやっと潤った気がした。冷たさが喉を滑り落ちる感覚に、体の中まで正気を取り戻していく。
顔を上げると、目の前にはペトラの切り立った赤褐色の岩の断崖が広がっていた。
「もしかすると……やっぱり、この辺にクナトがいるのかな……?」
僕はふとそう呟いた。
「それと、ドゥシャラ」
視線の奥には先ほどの祠があった。夢で見たものより、色あせて、形も丸みを帯びていた。しばらく、ぼーっと見つめていたが、やっぱりそれはただの岩壁の一部にすぎなかった。
自嘲するように笑ったあと、ペットボトルのキャップを閉めてリュックに戻した。そして、荒れた砂地に足跡を残しながら、前を行く友人たちを追いかけた。
「ホホ、もうすぐよ……」ムハンマドが小声で呟く。胸の高鳴りに、その声もかき消されるようだった。
長いようでいてあっという間だったシークの道を抜けると、このヨルダンで最も象徴的な遺跡がついにその姿を現した。
シークの出口に差し掛かるその瞬間、僕は遺跡が目に入るよりも先に息を呑んだ。その理由は、遺跡を目の当たりにするまでの道のりが、あまりに巧妙に計算され、感覚を刺激するものだったからだ。シークの最後の抜け道は、それまで歩いてきた砂色の回廊よりもさらに狭く、両側の岩壁がますます接近していた。頭上を覆うようにそびえる赤褐色の壁が、視界を狭め、まるで通行人を拒むかのような厳かで重厚な雰囲気を醸し出している。足音が砂を踏むたびに微かな音が反響し、深い静けさの中に響いた。そして次の瞬間、視界がふっと開けた。狭い回廊から突如として広がる広場のような空間。目の前には、ヨルダンが誇る最大の遺跡「エル=カズネ」が、圧倒的な威容をもって佇んでいた。その堂々たる姿を前に、僕たちは思わず足を止めた。
「これが……エル=カズネ……」
僕たちはしばらくの間、ただその壮麗な姿を見上げることしかできなかった。心の中で言葉を紡ごうとしても、この光景の前では何も適切な表現が見つからない。タムもムハンマドも言葉を失っていた。それほど、この場を支配しているのはその遺跡の圧倒的な存在感だった。
狭く息苦しいシークの回廊を1時間近く歩いてきた記憶。それが、この空間をより一層広く感じさせているのだろう。目の前にそびえるエル=カズネは、三階建てのビルに匹敵する高さを持ち、その壮麗さは現実のものとは思えないほどだった。赤褐色の岩壁を丹念に掘り抜いて作られたその姿は、幾何学的でありながら自然と調和し、不思議な荘厳さを感じさせる。
「すごい……」
タムがようやく声を漏らした。それを聞き、僕は静かに頷いた。
大きな岩壁を削り出して造られたこの神殿は、どこかギリシア建築を思わせる特徴を持ちながらも、この赤褐色の岩肌が持つ荒々しさと温もりが、白い大理石で造られたギリシア建築とは全く異なる印象を与えるつつ、この土地独自の自然と見事に調和していた。大きな柱や太い梁には精巧な装飾が施されており緻密である。神殿そのものが周囲の風景に溶け込み、なおかつ圧倒的な異国情緒を放っているのだ。
「中には入れないんだね。」
タムが少し残念そうに呟いた。神殿の正面にはチェーンがかけられ、立ち入りを禁じる表示がある。その隣には係員らしき人物が立っているが、特に説明をする様子もなく、軽く肩をすくめるだけだった。
「ホホホ。昔はね、君たちが生まれる前くらいは中にも入れたんだ。でも今は保存のために立ち入り禁止だよ。」
ムハンマドが穏やかに説明する。その軽い口調とは裏腹に、どこか寂しさが滲んでいた。彼の言葉には、かつて内部に足を踏み入れた人々の記憶と、今では触れることのできない隔たりが感じられた。
僕たちはそれ以上言葉を発さず、ただ神殿を見上げ続けた。赤褐色の柱には無数の彫刻が施され、梁には繊細な模様が刻まれている。その一つ一つに時の流れが刻み込まれているようだった。無数のひび割れや風化の跡が、この場所が長い歴史の中で見てきた物語を語っている気がした。風が一陣吹き抜け、砂が足元で舞った。エル=カズネはそこにただ存在しているだけで、見る者を古代へと誘うような力を持っていた。その神秘的な魅力に、僕たちは目を離すことができなかった。
「ホホホ、エル=カズネっていう名前の由来、知ってる?」
沈黙を破るようにムハンマドが言った。
「知らない。どういう意味なの?」
僕が興味を示すと、彼は少し得意げに説明を始めた。
「エル=カズネは、アラビア語で“財宝の貯蔵庫”っていう意味よ。この神殿には、大昔の財宝が隠されているっていう伝説があったね。ほら、神殿の一番上に丸い壺の彫刻があるでしょう?」
僕たちは言われた通りに目を凝らした。神殿の中央、最上部には壺のような彫刻があった。
「昔の人たち、あの壺の中にお宝が隠されていると思っていたね。それでね、盗賊たちが矢や弾で壺を壊そうとしたんだけど、結局は壺の形をした装飾でただの岩だったね。ほら、少し欠けているでしょう?」
僕は壺に目を凝らす。確かに壺の形をした彫刻の一部には欠けがあり、割れたというより削られた跡のように見えた。つまり、壺の形をしているが中は空洞などではなく、岩の塊がそのまま残っていたということだ。壺の周りの装飾も所々、何かがぶつかったようで崩れていた。
「なるほどね。そんな話があるんだ。」
僕は壺の彫刻を見上げながら言った。
古代ナバテアの歴史があり、忘れられた砂漠の国が財宝伝説となった。その財宝伝説を舞台にした盗賊たちの話があり、その話すらもまた歴史になって、今では遺跡の名前として残っている。なんとも不思議な話ではないか。
「ホホㇹ、実際のところは、財宝なんてなかったというお話ね。」
ムハンマドが冗談めかして笑った。
脇を見ると、広場の端にささやかなカフェスペースが設けられているのが目に入った。簡素なテーブルと椅子がいくつか置かれ、テントの日陰が心地よさそうに見える。観光客たちが歩き疲れて一息ついているのか、ポツリポツリと人影がある。辺りに漂うコーヒーの香りと、小さな発電機の音が微かに耳に届いた。その隣には、観光客向けだろうか、ラクダが数頭、のんびりと座っていた。鮮やかな刺繍の施された鞍を背に乗せており、観光用に飾られているのがわかる。
ラクダたちは、どこかのんびりとした空気を漂わせていた。飼い主の姿は近くに見当たらず、今は休憩中らしい。僕は嬉々として、駱駝の近くに寄って行った。薄い砂色の毛並みに、傍若無人とした座り姿。まるでこの土地の守護者のように、エル=カズネを背景に佇んでいる。観光客たちも興味を示す気配はなく、のんびりと仕事の出番を待って待機していた。これは絶好のシャッターチャンスである。
「ちょうどいいな、今のうちにモデルになってもらおう」
僕はポケットからスマホを取り出し、撮影の構図を考えながら片膝をついた。スマホを逆さに持ち、地面近くから煽るようにしてラクダを画面に収める。ファインダー越しに見えるラクダと遺跡。その組み合わせが絶妙に絵になっていた。背景には赤褐色のエル=カズネがそびえ、ラクダの存在感がその前でいっそう引き立っている。
「よし、いい感じだ」
シャッター音が鳴り、僕は満足げに画面を確認した。遺跡とラクダの対比が、砂漠の壮大さを見事に捉えている。これなら間違いなくSNSに載せても映えるだろう、と自己満足に浸りながらスマホをポケットにしまった。
「ありがとな」
僕はモデルになってもらったラクダに向かって軽く笑顔を送った。その視線の先で、ラクダは微動だにせずこちらを見つめ返している。その瞳は深く澄んでいて、どこか達観したような落ち着きがあった。何を考えているのだろうか。単に僕を物珍しそうに見ているだけか、それとも、何かもっと別のことを感じ取っているのか。
近づいてその顔をもう一度じっくりと見てみる。ラクダの目は不思議だ。睫毛が長く、砂漠の厳しい環境に適応したそのつくりはどこか知性的だ。だが、その奥に宿る感情は人知れず、僕には到底理解できそうにない。瞬きもせず、深い闇のような瞳がこちらを見つめ続けている。気がつくと、僕はその瞳に吸い込まれそうな感覚に襲われていた。
ラクダの目に一粒の涙が浮かび、それが静かに頬を伝い落ちた。太陽の光を受けて輝くその雫は、乾燥した砂に落ちると地面へと染みることなく、それどころかありえないほど大きな水たまりとなり、地面を満たしていった。
「え、また……」
言葉に詰まる僕の足元に水が溢れ始める。砂漠に水が生じるはずがない。けれど、目の前の光景はどう見ても現実だった。
またクナトのいたずらだろうか。
水はたちまち広がり、砂漠全体を覆うように流れていく。波紋が広がるたびに、その水面に映る光景が歪み、次第に何か別の世界を映し始めた。




