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旅と地球の淡い夢  作者: 旅崎 ノブヒロ
ナバテアへの誘い
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隠れ道が語る夢

 砂漠の海から抜け出し、巨大な岩壁地帯へと足を踏み入れた。目の前に広がるのは、険しい峡谷の入口だった。男が言うには、ここは「シーク」と呼ばれる峡谷で、ナバテア王国の都へ続く天然の回廊だという。そのスケールの大きさに圧倒されながら、私は周囲を見回した。

 シークの入口付近にはテントが点在していた。近づくにつれて、その数は徐々に増え、最終的には小さな集落のようになっていた。テントはどれも砂地にしっかりと固定されており、中からはかすかに人々の話し声や笑い声が漏れてくる。時折、香辛料や焼き肉のような香ばしい匂いが風に乗って鼻をくすぐる。その活気に満ちた雰囲気が、これから訪れる異世界のような都への期待をさらに膨らませた。

 シークの入口には槍を持った男が立っていた。憲兵らしいが、鎧などの重装備をまとっているわけではなく、軽装で身軽そうな印象だ。その槍の先端は鋭く光り、彼がこの地を守る者であることを示していた。

「よぉ、おかえり」と憲兵が声をかける。

「あぁ、帰ったぞ。荷下ろしをしたい」と案内人の男が答えた。

「シークの途中までは入っていいが、中へ入るのは明日だぞ」と憲兵が厳格な口調で告げる。


「どこまで行ってきたんだ?」

「東さ。珍しい香辛料を買い付けてきたぞ。」

「ほほう。ローマの連中に高値で売れるといいな。とりあえず、荷とラクダはここで引き取ろう。水を飲ませておく。」

 私がラクダから降りると、憲兵の視線がこちらに向いた。その視線は好奇の入り混じったものだった。彼は明らかに僕が見慣れない風貌であることに気づいたようだ。

「なんだか珍しいお客人を連れているな」

「あぁ、なんでも遠い遠い東の国から来ているんだ。」

 私は丁寧にお辞儀をして敬意を示した。この地にお辞儀の文化があるかどうかは知らなかったが、少なくとも不快に思われることはないだろう。

「お客人にもすまないが、王国の中に入れるのは明日の朝だ。今晩はシークの中で休んでくれ。」

 憲兵に荷物とラクダを預けると、案内人は僕を連れてシークと呼ばれる峡谷の内部へと足を進めた。

 シークの中はただの峡谷ではなかった。その狭い通路の両側には所々にテントや焚き火が設けられており、宿や簡単な飯屋を営む様子が伺えた。ランプの灯りがテントの隙間から漏れ、岩壁に赤い光が映り込んでいる。その光景はどこか幻想的で、ここがただの道ではなく、生きた都市の一部であることを物語っていた。「知り合いの宿がある」と案内人が言い、私はその言葉に従って彼の後を歩いた。

 少し進むと、民衆が集まっている場所に出た。そこはとりわけランプの灯りが煌々と照らし出されており、赤い岩壁が光に反射して揺らめいている。その光景は、あたかも炎の中に包まれたようで、神秘的な雰囲気を醸し出していた。祠の前には、人々が静かに集い、ひざまずいて目を閉じている者、手を合わせている者が見える。その表情には、深い敬意と安らぎが宿っているようだった。あたりにはふわりとした香りが漂っていて、どうやら香も炊いているらしい。スパイスと甘さが混じり合ったその香りは、祈りの場をさらに神聖なものにしていた。祠のそばには、捧げ物として葡萄や小麦の束が供えられている。よく見ると、陶器の小さな器に油や蜜のようなものが入れられ、それも供えられていた。

「おっといけねぇ。まずはご挨拶だ。」

 案内人の男はそう言うと、民衆に混じって祠の前でひざまずき、目を閉じて手を合わせた。

 私も見よう見まねでひざまずき、彼の仕草を真似た。目を閉じると、祠から漂う静謐な空気が全身を包み込むように感じられた。周囲の喧騒が遠のき、祠の前に座る民衆の心拍さえも静かに聞こえるようだった。まるで時が止まったかのような気分に陥った。

 横目で男を見ると、彼は熱心に祈りを続け、何か呪文めいた言葉をぶつぶつと口にしていた。私はふと顔を上げ、改めて祠を見つめた。祠には神の姿や彫像はなく、柱と屋根のある小さな神殿のような簡素な彫刻があるだけだった。その造形は赤い岩壁の一部を削り取って作られたもので、粗削りながらも力強さを感じさせた。

 その瞬間、何かに心臓を握られたような感覚が襲い、身動きが取れなくなった。祠から何か思念のようなものがあふれ出し、それが一直線にこちらへ向かってくるような気がした。祠の奥は漆黒の空間に見え、その先がどこまでも続いているように思えた。そこからかすかな声が聞こえる。周囲の静けさが異様なほど際立ち、全身の毛が逆立つのを感じた。頬に汗が一筋流れ、私は緊張で硬直したまま祠を見つめ続けた。


「よし、行こうか。」

 男の声で我に返ると、先ほどまでの謎の緊張感は消え去り、体が再び自由に動くようになった。

 それは時間にして数十秒ほどだっただろう。しかし、その短い時間が異様に長く感じられた。男は立ち上がり、祠に一礼すると歩き出した。私はそのあとをそそくさと追い、祠の前を後にした。一歩、二歩と進むとどうしても気になり、振り返ってもう一度祠を見た。明かりに照らされた赤い岩壁は、ただ静かにそこに佇み、人々の祈りを受け止めているようだった。

「さっきのは?」

 私は案内人に尋ねた。

「あれは俺らの守り神、ドゥシャラ様さ。」

 その名は力強い響きを持ちながら、同時に畏怖の念を感じさせた。

「小さな神殿のように見えたが。」

「あぁ、もちろん、あれがドゥシャラ様ってわけじゃねぇ。あれはただ祈るための場だ。」

「ならば、どんなお姿なのだ?そのドゥシャラという神は。」

 私がさらに尋ねると、案内人は豪快に笑った。

「ははは、あんたは神様の姿を見たことがあるのかい?」

「いや、それはないが……。」

 私は言葉に詰まり、曖昧に返事をした。


「なんだ、汗をかいているじゃないか。」

 男はようやく私の不調に気づいたようで、「水を飲もう」と声をかけてきた。彼は私の背中をさすりながら、すぐ近くの水飲み場まで案内してくれた。

 水飲み場はくぼんだ岩に作られ、木製の板で蓋がされている簡素な造りだった。数人の人々が桶で水を汲んでいる姿が見える。私もその水を手に取り、喉を潤した。水の冷たさが砂漠の乾いた空気に心地よく染み渡り、体が少しずつ落ち着いていった。


「ありがとう。すごいな。水がこんなにたくさんある。」

 砂漠の真ん中で貴重な水を確保するその技術に感嘆しながら言うと、案内人は誇らしげに笑った。

「はは、ナバテアの治水技術は天下一よ。」

 一息ついた私は周囲を見回した。水飲み場からは陶器で作られた管が延びており、その作りが目を引いた。短い筒状の陶器が幾重にも重ねられ、シークの湾曲に合わせて緩やかに続いている。

「ほう、これは……。」

 私は思わず感嘆の声を漏らした。その作りはどこかで見覚えがある。

「博物館で見たとおりだ。」

「はく?なんだって?」男が首を傾げた。

 その瞬間、私も何かがおかしいことに気づいた。博物館?それは一体どこだ?なんだ?私はいったい、これをどこで見たのだ?

 しかし、深く考える間もなく私の視界はぼやけ始めた。頭が揺れ、足元が崩れるような感覚が広がる。ランプの光が尾を引いて流れていく。混ざり合う景色の奥にランプに照らされた、あの祠が見えた。

「おい、大丈夫か!」

 案内人の声が遠くから聞こえるが、その声も次第に消え、私は虚空に放り出される感覚に襲われた。周囲の景色がぐるりと一回転し、私の体は深い闇の中へと沈んでいく。砂漠も岩壁も遠ざかり、冷たく静かな闇だけが私を包み込んでいった――

挿絵(By みてみん)

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