シーク 交錯する道
シークをしばらく進むと、少し広がりのある空間に出た。相変わらず、岩壁に挟まれた細い道は続いているが、この場所は道幅が広がり、小さな部屋のような雰囲気を醸し出している。左側の岩壁にはぽつんと小さなくぼみがあり、その隣には案内板が立てられていた。一方、右側には少し植物の生い茂った一帯が広がり、緑の存在が砂と岩の風景に不思議な対比を生み出している。
僕たちはまず、左側の案内板のある岩壁に集まった。そのくぼみは、岩壁の腰の高さあたりに刻まれた人工的な彫刻で、まるで小さな祠のような形をしている。削り取られた窪みの両側には、小さな柱のような繊細な細工が施されており、明らかに自然の風化ではなく人間の手によって造られたものであることが一目でわかった。
さらに周囲を見渡すと、似たような窪みがいくつも点在している。それらは静かに岩肌に溶け込んでおり、場所全体に漂う神秘的な雰囲気を一層引き立てていた。僕たちは足を止め、その祠のようなものをじっと見つめた。近くには小さな案内板が立てられており、アラビア語と英語で説明が記されている。それを一瞥したムハンマドが「ホホホ」と軽く笑いながら言った。
「おそらく、ここは祈りの場所だね。」
僕はその言葉を聞きながら、ふと日本の山道や田舎道に佇むお地蔵さんを思い出した。仏像の姿かたちこそないものの、道端に設けられた祈りの場には、何か近しいものを感じたのだ。
「日本にもこういうのがよくあるよ。お地蔵さんっていうんだ。」
「仏教のイコンの一種かい?」タムが興味深そうに聞いてきた。
「まぁ、そんな感じかな。山道や田んぼのあぜ道にひっそり置かれていて、地域の人たちが掃除したり、花を供えたりするんだ。」
僕の説明を聞いたタムは、「ふむふむ」と小さく頷きながら「キリストの国にも、道端に祠と十字架があったりもするよ」と教えてくれた。現在の日本やオーストラリアと、古代のナバテアとの共通点が見つかったような気がして、僕らはふっと笑顔になった。タムは再び祠の近くに立つ案内板に目を戻した。
タムがパネルを読んでいたので、僕は面倒な英文解読を放棄して、彼の説明を待つことにした。
「これはなんだろう。ナバテアの神話に基づいたものかな?それともイスラム的なもの?」
岩壁の窪みは、小さな神殿のような形をしており、彫り込みの中には何もないが、その空間自体が何かを守っているような静けさをたたえている。
やがてタムが案内板を読み終えたようで、振り返って教えてくれた。
「あぁ、これはナバテア人の神に捧げられた祠らしい。ドゥシャラという名前の神様だって」
「ドゥシャラ?それが神様の名前?」僕が聞き返すと「ああ、そう書いてあるね」と答えが返ってきた。
「ムハンマド、何か知ってる?」僕はそう尋ねると、ムハンマドは顔を横に振った。
「ヨルダンは、今はもうイスラム教の国ね。こういったもの知ってる人も、ほとんどいない」そう言った彼自身も、興味深そうにアラビア語で書かれたパネルを読んでいた。彼は何度かペトラには来ているはずだが、この案内板を読むのは初めてらしい。
彼はそう言うと、「ふんふん」と鼻歌を口ずさみながら、反対側にある、植物が群生しているほうへと歩いていった。
ムハンマドに付いて行くタムを尻目に、僕は祠の群を改めて見た。岩壁に彫られた静かな祠たちは、一見すると素朴だが、そこには祈りや畏敬の念が確かに込められているようだった。
なるほど、つまりナバテア王国の古代宗教は、アニミズムに近いのかもしれない。山や太陽を神として崇める文明は世界中に多いし、日本もそのうちの一つだ。僕はふと、日本の神社や祠を思い出した。山の中にひっそりと佇む鳥居や社殿、田んぼのあぜ道に置かれた小さなお地蔵さん、それらもまた、自然や土地への感謝や祈りを象徴している。
「そう考えると、日本とナバテアも意外と似ているところがあるのかもしれないな……。」
僕はそんなことを考えながら、この祠に少し心を引かれている自分に気づいた。
ナバテア王国に独自の神話と宗教が存在していたことは、最初こそ驚きだったが、紀元前に興った国家であることを考えれば、それも当然のことだと思い直した。僕は後で詳しく調べられるように、案内板の説明文をスマホで写真に収めると、軽く息をついてから二人の後を追うことにした。
二人は群生している植物の周りにいて、タムはしゃがみ込みながらその植物を写真に収めていた。
「ノブ、これおもしろいよ。」タムがこちらを振り返りながら言う。
僕も近づいてみると、そこには葉や茎からこれでもかというほど鋭いとげが生えた植物が生えていた。
「サボテンみたいだね。」
僕が感想を述べると、タムはスマホ越しにその植物を見つめながら言った。
「いや、サボテンというより、バラって感じかな。ほら、花が咲いてるわけじゃないけど、葉っぱや茎がしっかりとあるだろう。このとげの付き方がは、そんな印象を受けるね」
「砂漠の植物だね。タム、とげに気を付けて。」
ムハンマドが穏やかに笑いながら、タムに注意を促した。
タムは熱心に写真を撮っていて、その様子につられて僕もスマホを取り出した。誰かが写真を撮っていると、自分も撮りたくなってしまうものだ。タムの真似をして似たアングルから何枚か撮影する。植物の鋭いとげが光を反射し、砂漠の過酷さと生命力を象徴しているように見えた。
植物観察を終え、改めて周囲を見渡してみると、その植物の裏側にさらに広がるスペースがあることに気づいた。葉の影から見えるのは、まるでバスタブのように広く窪んだ岩の空間だった。植物が群生する根元から、その窪みへと続く緩やかな坂道が繋がっている。
「これ、貯水池かもしれないね。」
ムハンマドがその方向を指しながら言った。
僕たちはその窪みに近づいてみた。確かに、それは人工的に掘られたもののように見えた。広がった空間は乾ききった赤茶けた色をしており、細かな砂埃が表面を覆っている。
「このあたりにも水を引いていたんだろうね。」タムが足元を見つめながら言った。
貯水池は今や空っぽで、かつてそこに水が満ちていたとは想像しにくいほどの静けさに包まれていた。砂漠特有の乾燥した空気の中、小石や枯れた植物の葉がところどころ散らばっており、時間が止まったような印象を受ける。
「昔はここに水が溜まっていて、植物ももっと元気だったのかな。」タムが立ち上がりながら呟いた。
その一言に、僕も想像を巡らせた。この窪みに水が溜まり、周りを囲む植物たちが生き生きと茂っていたであろう頃の姿を。風に舞う砂埃を目で追いながら、今はただ静かにその痕跡だけが残されていることに少し切なさを感じた。
その時だった。干上がったはずの貯水池の底が、突如として揺らぎ始めた。静まり返っていたはずの空間がざわめきだし、しだいに轟々とした耳鳴りが聞こえだした。目の前には、あるはずのない水面のようなものが現れ始め、ありえないはずの波紋がゆっくりと広がり、次第に勢いを増していった。僕はその奇妙な光景に釘付けになり、周囲の空気が変わっていくのを感じた。岩肌の色が深みを増し、陰影が強まる。その場の温度がわずかに下がった気がした。冷たい風が頬をかすめ、鳥肌が立つ。足元が急に不安定になったように感じられ、バランスを取ろうと両手を伸ばした瞬間、視界がぐらりと揺れた。耳元で水が激しくぶつかり合う音が響き、現実が歪んでいく。
目の前の貯水池は、ただ水が湧き出すだけではなく、渦を巻きながら旋回しており、まるで巨大な目がこちらを見つめているような錯覚を覚えた。渦の中心から生まれる吸引力が足元に伝わってくるような気がして、僕は思わず後ずさった。しかし、遅かった。足元の石がごろりと動いたように感じ、僕はバランスを崩してよろけた。次の瞬間、体が前に傾き、引き寄せられるように貯水池の中へと吸い込まれた。冷たい衝撃が全身を貫き、意識が一瞬遠のいた。
不思議と水に濡れた感覚はなく、代わりに穴に落ちているような感じがした。そのうち、渦の音も遠ざかり、代わりに静寂が訪れた。僕は全身が闇に溶け込んでいくような感覚の中で、意識を失っていったのだった。




