シーク 秘密の道
ペトラ観光の初日。青い空には白い雲がぽっかりと浮かび、じりじりとした熱気が僕らを包んでいた。2リットルのペットボトルをリュックに忍ばせる。もとより暑いのは承知の上だ。雨や曇りになるよりかは、観光日和だ。僕らは宿から車を走らせて、遺跡を含む管理区域まで移動し、チケットの購入を終え、ついにペトラの入り口に立っていた。
「いや~~、こりゃすごいね。本当に大冒険に来た感じがするよ」
タムが目を輝かせて、興奮気味に周囲を見回す。
僕も同じ気持ちだった。この場に立つだけで、何か特別な冒険の始まりを予感させる。ペトラ遺跡の入り口に広がる赤茶けた大地と巨大な岩山は、写真や映像で見ていたものよりも遥かに壮大で、ただその場にいるだけで心が踊った。
入場ゲートからは、砂漠地帯を通る道が続く。さらさらとした砂の大地の中を、赤い岩山がところどころ顔を出していた。僕らはゆっくりとその景色を眺めながら歩を進めた。やがて道は緩やかな下り坂となり、岩山の間へと吸い込まれるように進んでいく。
「ほほほ、ここがシーク。ここからがペトラの本当の入り口よ」
ムハンマドが声を弾ませる。その目には、どこか誇らしげな光が宿っている。
シーク。ペトラ遺跡への道程として知られる狭い峡谷だ。全長約1.2kmに及ぶこの道は、まるで自然が作り出した迷宮のようだった。両側の岩壁は80メートル以上の高さにそびえ立ち、通路はわずか3~5メートルほどの幅しかない。岩壁の隙間のようなこの道をおよそ20分ほど歩くと、ペトラのシンボルともなっている有名なエル=カズネの神殿へとたどり着く。地球の隙間に入っていくような感覚がする。細く長い道は、自然の圧倒的な力を感じさせると同時に、かつての旅人やキャラバンたちがこの地を通った光景を想像させた。
峡谷へ足を踏み入れると、空気が一変した感じがした。先ほどまでの砂漠地帯とは違い、両側の岩壁が日差しを遮り、涼しささえ感じられる。上を見上げると、細く切り取られた青空が帯のように見える。光と影のコントラストが劇的で、岩壁は赤やピンク、オレンジと色が移り変わるようだった。
「なんだか、閉じ込められた気がするね」
タムがそう呟くと、彼の声が岩壁に反響して、少し余韻を残して僕の耳に届いた。僕はすぐさま「あーーー」と声を出してみる。予想通りに声が反響する。僕らはお互いに顔を見合わせてから、それぞれ「あーー」だの「ウォウ」だの「ハロー」だのと、この峡谷の道の持つ音響的特性を楽しんだ。
峡谷の壁面には風化や侵食の跡が見られる。年月を経て滑らかに削られた岩の表面は、まるで何かの流れのような模様を刻んでいる。それが光の具合によって変化する様子は、どこか幻想的で、現実感を失わせるほどだった。足元は舗装されているものの、ところどころ砂地になっているところがあり、その砂地と岩壁の隙間から、時折小さな草花がたくましく根を張っていた。
「かつてここは川だったんだろうね」
僕は足元の道に目をやりながら呟いた。岩肌の流れるような模様は、何万年も昔に流れていた川の記憶をありありと伝えてくる。何十万年という歳月をかけて、この地形が生まれたということに思いをはせる。ナバテア人が築いたペトラの風景は、自然と人間の営みが交わった景色で、それは人の歴史を越えた、地球の歴史を感じさせるものだった。
「この地形を利用して、天然の要塞に仕立てたんだな。この崖の上から岩を落とされたら、侵入者に勝ち目はないだろうね」と、タムが感心したように言った。
僕は顔を上げ、はるか数十メートルの高さにそびえる岩壁の先に見える青空を見つめた。確かに、もし侵入者がこの道を通ろうとすれば、この崖の上からの攻撃を防ぐ術はないだろう。
ムハンマドが笑いながら答えた。
「そうさ。このシークを通るたび、私たちは先祖の知恵と自然の力に驚かされるね」やはり、彼の表情は、どこか誇らしさが見えた。
「ムハンマド、君の祖先はナバテア人なのかい?」タムが興味深そうに尋ねた。
「ホホホ、正直、よくわからないね」
ムハンマドはいつものように明るく笑った。
「ひいひいお爺さんがシリアから来たと聞いたことがあるから、多分違うと思う。でも、母方の家系はずっとヨルダンだと聞いている。だから、もしかしたらそうかもね」
「なるほどね。」僕とタムは微笑んで頷いた。
ムハンマドの答えは曖昧だったけれど、どこか「そうだったらいいな」という気持に僕もなった。
「タムは、両親がベトナムから引っ越したんだよね」
僕が尋ねると、タムは少し肩をすくめて答えた。
「戦争のときにね。僕自身は生まれも育ちもオーストラリアだから、ベトナム語もあまり上手に話せないけどさ。でも、祖父母に会いに何度かベトナムには行ったことがあるよ。祖父母がずっとベトナムの家系なのかも、正直よくわからないね」
タムの穏やかな語り口には、それが特別な話ではないというニュアンスが含まれていた。何気ない口調に、彼の感覚の一端が垣間見える。いつも思うことだが、オーストラリア人やアメリカ人が持つ、ルーツと国家が切り離されたこの感覚は、日本人の僕には少し不思議な感覚だった。
「ノブは、わかりやすくていいね」
タムが僕に話を振ると、ムハンマドも頷いた。
「たしかに、日本人はわかりやすいね」
「まぁね」
僕は少し照れくさく笑いながらも、続けた。
「でもね、僕だってじいちゃんやばあちゃんのことは知ってるけど、ひいお爺さんやひいお婆さんのことはほとんど知らないんだ。たった100年すこし前のことだけど。過去のことって、僕たちが思っているよりも、もっと速いスピードで、忘れられていくものなのかもしれないね」
「ホホホ、そうして、残るのは遺跡だけね」
ムハンマドの朗らかな笑い声が、少しセンチメンタルな空気を和らげた。その声に救われるような気持ちで、僕たちは顔を見合わせて笑った。
だけど――僕の心の片隅には、ほんの少し無常観のようなものが芽生えていた。
人がどれだけ努力しても、時間がすべてを飲み込んでしまう。個人の記憶も、家族の歴史も、やがては消え、遺跡や文化としてその一部が残るだけだ。このペトラには、古代ナバテア人たちのいろんな思いがかつて詰まっていて、そのほとんどが消え失せたのだ。そしてこの遺跡だけがタイムカプセルのように今も残されている。
峡谷を進むごとに、僕たちの足取りは軽くなっていった。目に映るすべてが新鮮で、息を切らしながらも次に何が現れるのかという期待感が足を進めさせる。どこかで鳥のさえずりが響き、風が岩壁をすり抜ける音が耳に心地よい。
「風の音って、何千年前もこんな風に聞こえてたのかな。」ふと僕が呟くと、二人は振り返らずに笑った。
「ホホホ、そんなのわかるわけないさ!」ムハンマドが答える。タムも肩をすくめて笑った。
けれど、このシークの空気には、古代の神秘と大自然の迫力が詰まっているようだった。もしも人類が消え去ったとしても、この峡谷は風と共に歴史を見守り続けるのだろう。そう思うと、足元の砂の感触が少し重く感じられた。