故郷の鉄車 異国で眠る
ひとしきり遊んだ後、僕がふと連結部の巨大な金具を見つめると、驚くことに「1959 JAPAN SHARYO」という文字が刻まれているのが目に入った。長い年月にさらされてかすれているが、その刻印ははっきりと残っていて、砂と風に刻まれた時間を超えて僕たちに語りかけているようだった。ジャパン車両。つまり日本車輛か。鉄道関係の日本の企業に特に詳しいわけでもないので、実際にそういった会社があるのかは、わからなかったが、おそらくこの鉄道車輛を造った会社の刻印だろう。
「見て、これ日本って書いてある」僕が驚きの声を上げると、タムとムハンマドも駆け寄ってきた。
「ホホホ、メイドインジャパンだね。素晴らしいね。ヨルダンと日本の絆よ」とムハンマドが嬉しそうに笑う。
タムも興味深げに眺めながら、「1959年とあるね。ということは、第一次世界大戦以降も、一部の路線は使われていたのかもしれないね」と分析してくれた。確かに、先ほどのムハンマドの説明と少し矛盾する。1959年と言えば、なんなら第二次世界大戦以降の話だ。それでももう70年も昔の話だが。僕は再び錆びついた鉄道車両に目をやった。この砂漠の真ん中に、日本の企業が作った車両が取り残されていることが、何とも言えない感慨深さを感じさせた。
60年以上も前に、日本の誰かがこの車両に手をかけ、ヨルダンの地に送り出したことを考えると、遠い過去と自分が不思議な形でつながっているような気がした。100年前の線路と、60年前の車両が今もなお砂漠の中に朽ち果てず存在しているさまは、まるでタイムカプセルのようであり、ここに埋もれた歴史が風化しながらも残り続けていることが、僕の心に深い印象を与えるのだった。
この車両を作った人、ここへ運んだ人、実際にこの鉄道で働いた人、整備した人、そして最後に見届けた人。彼らはどんな顔をしていたのか、どんな思いでこの車両を見つめていたのか。今となっては知る由もないが、彼らの痕跡はここに確かに残り、砂漠の砂と共に少しずつ地球の歴史に溶け込んでいるのだと思うと、どこか壮大な気持ちに包まれた。
タムもムハンマドもそれぞれの思いを胸に、この車両の歴史に静かに思いを馳せているようだった。先へ進む線路は砂に覆われ、その姿はほとんど見えなくなっていたが、線路の先にどこか別の地へと続いているような感覚が心に広がった。ふと風が吹き抜け、砂がわずかに舞い上がる。遠い過去に人々が行き交い、物資を運び、思いを交わしたその場所は、今や時の流れの中に取り残されている。しかし、錆びた鉄道車両は、その物語を微かに残し、語りかけているようにも感じられた。
「さて、休憩おわり」と僕はそっと口にし、名残惜しさを抱きつつ砂まみれの鉄道に別れを告げた。タムが肩をすくめながら、「じゃあ、次の目的地へ行こうか」と笑顔を見せると、ムハンマドも「ホホホ、レッツゴー!」と軽やかに応えた。僕たちは再び車に乗り込むと、エンジンをかけ、砂漠の道へと走り出した。
廃線を後にする、その時だった。僕の心は、なんだかものさみしいような、もの足りないような気持があふれていた。
「クナトがいれば、なにか見せてくれたかもな」車の窓越しに、遠くなる鉄道車輛を見ながら、僕は日本語で呟いていた。思えば、黒猫がクナトを連れ去ったことで、僕は白昼夢にも悩まされることはなくなり、むしろ日常が帰ってきただけのはずだった。けれども、どうしてか、僕の心は何かが足りないような気がしてすまなかった。僕は小さくため息をついて、豆粒のようになっていた鉄道車輛から視線を外し、フロントガラスのほうへ向き直るのだった。
その後の道中、僕たちは何度か車を止めて、広がる景色を楽しんだりした。ワディからみえる峡谷や、乾いた荒野の中にぽつんと見える小さな集落、そしてどこまでも続く澄みきった空。空気は乾いているが、心地よい風が吹いていた。
羊の大きな群れに遭遇することもあった。数十頭の羊がのんびりと道を横切り、まるで道が彼らのものであるかのようにゆったりとした足取りで進んでいく。そんな時は、道路は羊が優先になり、自動車は歩くような鈍行運転になる。
「ホホホ、可愛いね」とムハンマドが窓の外に目を細める。
タムも「こうして地元の暮らしを見られるのが、旅の楽しさだよね」と運転席の窓から身を乗り出して、笑顔で写真を撮っていた。
羊の放牧に何度か足を止めながら進んだ道のりも、夕方にはようやく終わりが見えた。山々に囲まれた谷間の中に、僕たちが泊まるワディムーサの町が姿を現した。ここが、明日からのペトラ観光の拠点となる。町に着くと、予約しておいた安宿にチェックインし、僕たちはそれぞれ荷物を整理した。部屋の窓から見える風景は、山肌が赤く染まりはじめていて、明日に向けた期待が膨らんでいく。疲れてはいるが、それ以上に明日の冒険に胸が高鳴る。
「いよいよだね」とタムが小さな声でつぶやく。僕は窓越しに、夕焼けに染まる山々と町の風景を眺めながら、しみじみとペトラで何を見て、何を感じるのか思いを巡らせた。砂と歴史に埋もれたペトラが、明日どんな顔を僕たちに見せてくれるのか。それを思うと、今から眠れない夜になりそうだった。
やがて夜が深まって、僕たちは明日に備えて静かに眠りについた。