砂漠を走ったレール
僕たちは、アンマンの安宿に大きめの荷物を預けたまま、1週間ほどのトリップに出発することになった。僕たちというのは、今回は僕とタム、そして宿のオーナーであるムハンマドの3人だ。ムハンマドはもちろんペトラには過去何度も行っているそうだが、僕たちの旅の同行したくなって、急遽仕事をジャードに任せて参加することにした。ジャードにはいくばくかの駄賃を渡し、宿の運営をまかせることで話がついたらしい。まぁ、ムハンマドよりもジャードのほうがしっかりしているから、宿は問題なく運営できるだろう。
旅の足には、例の古びた黒いセダンを再び借りることにした。エンジンはまだよく動くが、どこか頼りない振動が走る古い車で、3人でぎゅうぎゅうになりながら南部へと向かう。免許のないムハンマドは太っていて助手席だときつそうで、僕は免許はあるもののマニュアル車の運転には自信がない。ということで、出発前に三人の座席はすぐに決まった。僕とムハンマドでありったけの感謝の言葉をタムに伝えると、彼は「大丈夫。運転は好きだって言っただろう」とさわやかに答えてくれた。
南に伸びるハイウェイをひたすら走り、道中、いくつかの集落や名所にも立ち寄る予定にした。以前に東部の砂漠地帯を走った時とは異なり、南部のルートは、砂漠一色というわけではない。荒れた大地の中に点々と畑が広がり、低い丘陵地帯が続き、さらに「ワディ」と呼ばれる渓谷も数多く存在している。
ワディというのは、普段は枯れている川だが、雨が降った時にだけ急激に水が流れ出す場所だ。年間の降水量が少ないこの地域では、雨が降るとワディの一部が急流となり、その勢いで土砂を流し、一時的に危険な川を形成することもある。そうした急流を伴うワディは一見すると利用しにくいものだが、一方でワディ周辺では地下水が採れる場所もあり、古くからその恩恵を受けて人々が集落を築いてきた。こうして、ヨルダンの砂漠にはワディを中心とした村々や小さな集落が点在しているのだ。
ペトラ遺跡を観光する際の拠点となる町「ワディ=ムーサ」も、そのような場所の一つだ。この町は、まさにワディに面していることからその名がつけられており、枯れた川の名残に沿って家々が並ぶ。人が生きていくには、何よりも水が重要であることは、世界のどこでも変わらない。それは、この砂漠の国でも同じなのだ。
今回、僕たちが途中で立ち寄ったのは、荒涼とした砂漠の中に静かに佇む古い廃線跡だった。ヨルダンに来てから、ローマ遺跡やモスクなどの観光が続き、それらはやや食傷気味になっていたので、少し趣向を変えたくなり、寄り道にこの場所を選んだのだ。
「OK、到着!さぁ、休憩!」とタムが伸びをしながら車を降りる。僕とムハンマドも続いて車を降り、降り立った瞬間に広がる独特の静けさに耳を澄ませた。目の前には、朽ちかけた石造りの古い駅舎がひとつ。長い年月を耐えてきた石壁はところどころ色褪せており、風化がその表面に無数の傷跡を刻んでいる。窓はガラスが外され、ぽっかりと穴のように見えるその開口部からは、薄暗く空っぽの室内が覗いていた。 かつては人々が行き交っていたであろうこの場所も、今ではその面影すら残っていない。
駅舎の傍には、鈍い光沢を残しながらも錆びついてしまった黒いタンク車両が眠っていた。そしてそれに連結される形で、まるで西部劇の一場面のような木造の貨物車両がいくつか連なっている。日差しを浴びているせいか、鉄の部分は赤茶け、木の部分は灰色に乾ききっている。運転車両は見当たらず、それが、もはやここが廃線であることを物語るかのようだった。
「おぉ~、なんとも風情があるねぇ」僕は思わず笑みを浮かべ、スマホを取り出して写真を撮り始める。砂漠の真ん中にぽつんと残されたこの古びた車両と駅舎は、まるで時間が止まったかのように感じられた。
「ホホ、これはオスマン=トルコ時代のものね」ムハンマドが、この場所の説明をしてくれる。
ここはオスマン鉄道や、ヒジャーズ鉄道と呼ばれた鉄道の廃線である。ヒジャーズとは、サウジアラビアの紅海沿岸の地域をさす地名で、すなわち、両方の呼び名から推測できるように、オスマン帝国時代に、彼らが首都イスタンブールから、イスラム教徒の巡礼の目的地である現サウジアラビアにあるメッカへと敷いた鉄道である。
1908年に完成した鉄道路線であったが、1915年より始まった第一次世界大戦時に、イギリスの諜報員による破壊工作によって壊されて以後、使われていないらしい。
「へぇ~そうなんだ。」と、僕とタムはうなずいた。これだけの鉄道を砂漠の砂に埋もれさせておくのは、なんだか少しもったいない気がした。だがしかし、これは現在でいうところのトルコ、シリア、ヨルダン、サウジアラビアの4か国にわたる路線であり、復旧させるには障害も多いのだろう。
「ノブ、この鉄道を破壊したの、アラビアのロレンスよ。映画知ってる?」とムハンマドが話し始めた。
アラビアのロレンスは、第一次世界大戦中に活躍したイギリスの陸軍諜報員で、イギリスと対立していたオスマン帝国内に潜り込み、アラブ人に独立を約束して反乱を焚きつけた人物である。となると時勢を考えれば、破壊工作に協力したのは、ほかならぬ現ヨルダン国を構成している、このあたりのアラブ人だった。
「映画は見たことがないけど、アラビアのロレンスについては知ってるよ」と僕は答えた。アラビアのロレンスは、歴史の教科書にも載っていた。ロレンスが指導したアラブの反乱は連合国の勝利に貢献し、オスマン帝国を敗北に追い込んだ。しかし、ロレンスがアラブに約束した独立は果たされることなく、この地域はイギリスの委任統治領となってしまう。
「ホホッ、映画も古いからね。知らなくても不思議じゃないよ」とムハンマドは笑いながら続けた。彼の話を聞きながら、この鉄道がただの廃線ではなく、かつての激しい戦火の舞台であったことが改めて感じられた。今は静まり返っているが、ここでの戦いやその背景にある思惑、そして無数の人生の交差を思い浮かべると、胸がざわつくような気持ちになる。2000年以上昔のアンマンのローマ遺跡と比べると、100年などほんの短い時間のようにも思えるが、ここに刻まれた歴史はそれ以上に重く、遠い過去のようにも感じられる。
「映画も見てないのに、よく知っているね」とタムが驚いたように言った。 「いや、歴史ゲームをしていた時に名前を覚えただけさ」と僕は笑って答えた。それも嘘ではなかったが、実はヨルダンに来る前に、少しはこの国の歴史や関わりのある人物について調べていた。ロレンスの壮絶な人生も、その時に情報として知っていた。彼はというと大戦終結後にアラブ独立の約束を守れなかったことに自省の念を感じ、俳人のような暗い生涯を送ったという。
情報として知っていた歴史が、こうして現地でその足跡を目の当たりにすると、歴史としてではなく100年前の事実として感じられた。100年前、ここを駆け抜けた戦士たちや、この地を守ろうとした人々の思いが、風に乗って耳元をすり抜けていくような気がした。
僕たちは、錆びついた車両の周りを歩き回り、いろいろな角度から写真を撮ったり、時には車両に登ってみたりと、まるで遠足に来た子供のように探検を楽しんでいた。黒いタンク車両は、外見こそ錆に覆われて朽ちていたが、その頑丈な鉄のボディは今も砂漠の風に逆らって、悠然と佇んでいた。時折、砂嵐のような風が吹き抜けると、タンク車両の金属がわずかに音を立て、まるでこの鉄道に眠る記憶がささやいているようにも聞こえた。