アンマンの中心で黒猫と話す
黒猫は、僕をからかうように、つかず離れずの距離を保ちながら前方をひらりと進んでいた。やがてシタデルの入り口に差し掛かると、わずかな隙間を見つけ、まるで液体のように体をくねらせて金網の隙間をすり抜け、中へと消えてしまった。
シタデル、日本語にすると城塞という単語で呼ばれるこの場所は、アンマンの中心にそびえる古代ローマの遺跡で、アンマン市内でも屈指の観光スポットだ。高台に位置し、ここからは市内全域を見渡せる。古代ローマ時代の遺跡ではあるのだが、古くは新石器時代からも居住者がいたとされている。古代の遺物が点在していて、特に象徴的なのは、半ば朽ちた状態で立つ一対の大きな柱と、それを結ぶ梁だ。この柱はヘラクレス神殿の一部として知られており、今でも堂々とした佇まいで観光客を惹きつけている。訪れる者の多くが、この柱をバックに写真を撮り、アンマンの思い出に残す場所でもある。
さすがに、金網を超えるわけにもいかず、黒猫を見失った僕は、入場口まで大回りし、急いで入場料を払い、中へと駆けていく。
中に入ると、敷地内のあちこちに巨大な石柱が散らばり、いくつかはまだ立っているが、ほとんどは崩れ落ち、廃墟のような風景が広がっている。何世紀にもわたる風化と戦いながらも、壮大な歴史の片鱗を見せているこの場所は、まるで時が止まっているかのように静かだった。石柱には、かつての彫刻や装飾の跡がわずかに残っているが、それらも今は巨石についたただの傷跡にすぎない。
僕が目を凝らすと、黒猫は遺跡の一角にある朽ちた大理石の上にちょこんと座り、前足で顔をぺろぺろと舐めていた。まったく気ままな様子で、僕がどれほど息を切らして追いかけてきたかなどお構いなしに、あくびでもするかのように、のんびりとした表情でこれから昼寝でもするのかのようにさえ見えた。
「こいつ、完全に僕をからかってるな…」と、思わず呟いた。だが黒猫はまったく気にする素振りもなく、またひょいと飛び上がり、ローマ時代の大理石の破片をぴょんぴょんと飛び移って進んでいく。歴史的な遺跡で、猫の気まぐれに翻弄されている僕は、自分を少しばかばかしくも感じたが、気持ちは落ち着かず、つい足を早めてその後を追った。
シタデルの遺跡には、アザミの青紫の小さな花が咲いていて、石造りの廃墟の中で鮮やかな色合いを放っている。まるで夕暮れ時の遺跡に、淡い光の塊が、ぽつりぽつりと浮かんでいるようにも見えた。人影のない夕暮れ時の遺跡は、どことなく幻想的だ。歴史の中で朽ちていく大理石の傍らに、強く生きる植物が共存している風景は、どこか感傷的で心を打つ。しかし、今はそんな美しさに浸っている余裕もなく、次々と遺跡を飛び移って行く猫を追いかけていった。猫は僕をさらに奥へと誘い込んでいくかのように進んでいくのだった。シタデルの奥へと進みながら、ここまできたらなんとしてもあの黒猫の行く先を見届けなければならない気がして、胸の中に焦燥感が生まれるのを感じた。
シタデルの遺跡群を抜けて、黒猫は、崖の手前にある小さな広場までやってきていた。その向こうは切り立った崖のようになっていて、黒猫の背後にはアンマンの街並みが遠くに広がっているだけだった。どうやら、とうとう追い詰めたようだ。黒猫の隣には、先ほど丸呑みにされたはずのクナトがいつの間にか吐き出されたのか、ぷかぷかと浮かんで、猫の周りを回遊していた。それを黒猫は時折ちょんちょんと前足で触る。お互いに威嚇し合っているのか、あるいはじゃれ合っているのか、何とも判断できない空気が漂っていた。
僕は少し緊張しながら、恐る恐る声をかけてみた。
「よくわからないけどさ、そいつ、たぶん俺の守り神か何かなんだから、返してくれないかな?」
黒猫は僕の言葉にちらりと視線を向け、しばらく考えるようにしていたが、その華奢な前足で器用にクナトを転がしながら、短くひと鳴きした。奇妙なことに、その鳴き声が僕にはまるで人間の言葉のように聞こえたのだ。
ー遅いじゃないか、ずっと待っているのにー
まさかと思いながら、僕は返答してみる。
「遅くて悪かったね。でも、僕はマイペースな旅人なんでね、急かされるのは苦手なんだ」
ーせっかく遠くから来てくれたのに。なかなか私のところまで来てくれないんだものー
黒猫の言葉に少し戸惑いながらも、僕はさらに問いかけてみた。
「遠くから?どういう意味?…君はいったい誰なんだ?」
黒猫は答えることなく、ふわりと目を細め、再びクナトをくるくると転がして遊んでいるように見えた。僕が再び質問しようとした瞬間、黒猫は、静かな声で続けた。
「待っているよ。ペトラで」
「ペトラ?どうしてペトラに?」と、僕は思わず尋ねたが、黒猫はその言葉に答えることなく、僕をじっと見つめた後、再びクナトを口にくわえた。そして、静かにその場から飛び降りたのだ。慌てて僕は崖の端に駆け寄り、黒猫が消えた方向を覗き込んだ。眼下にはアンマンの喧騒が広がり、崖の下には3メートル以上の距離がある。飛び降りたところで無事に地面に降りられるはずもないが、驚いたことに黒猫の姿はすでに見当たらない。僕は一瞬立ち尽くし、ようやく遠くの路地に小さな黒い影が駆け去るのを見つけたが、それもまたあっという間に消えてしまった。
「なんだったんだ、今の…」
僕はしばらくその場に立ち尽くし、頭をかきむしりながら、さっきの出来事を必死に整理しようとした。結局、クナトも連れ去られたままだ。しかし、黒猫がペトラで待つと言ったことだけが、頭に深く残っていた。
「ハビビ!」
突然、後ろから明るい声がかかる。振り返ると、やや浅黒い肌の若い三人組の男性が、楽しげにこちらに手を振っていた。彼らはリュックを背負い、カジュアルな服装で、観光客らしい無邪気な笑顔を浮かべている。僕は戸惑いながらも、思わず「え、なにかな?」と答えた。
気が付くと、先ほどまで無人のようだったシタデルの敷地内は、いつの間にか観光客で賑わっていた。陽光が石造りの柱や崩れた壁に差し込んで、どこか幻想的な光景に見えるが、そこにはたくさんの人が行き交い、撮影を楽しんでいる。さっきまでの、現実離れした静けさや奇妙な出来事が、まるで夢だったかのように感じられた。僕の心はまだ何か不思議な感覚にとらわれていたが、ここにいる人々や遠くで聞こえる街の音が、徐々に僕を現実に引き戻していた。
「キャン ユー テイク ア ピクチャ プリーズ?」
どうやら、写真を一緒に撮ってほしいらしい。こういう場合は、大抵「一緒に写ってほしい」という意味だ。別に今時、東洋人が珍しいということもないだろうが、旅をしていると時折、こうして一緒に写真を撮ってほしいと頼まれることがある。特に、インド人やエジプト人。
少し照れくさい気もするが、僕も彼らの輪の中に入って、笑顔を作ってスマホのカメラの顔を向ける。
カシャリ、とシャッター音が響き、スマホの画面に映る自分と、明るく笑顔を浮かべたエジプトの彼らの姿に、ようやく現実感が戻ってきた気がする。数枚写真を撮り終えたところで、僕は好奇心から尋ねてみた。「君たち、どこから来たの?」
「エジプトから!」と、彼らは口を揃えて答え、嬉しそうに肩を並べて笑っている。やっぱりな。どっちかだと思った、と僕は思って、すこし苦笑いした。夕日を背景にしたシタデルの写真は、なかなか良いものが撮れていた。
その後、エジプトから来た大学生たちと一緒に、シタデルの遺跡を歩きながら、歴史の話や観光地の話で盛り上がった。夜近くになり、遺跡を後にして安宿に帰る途中で、彼らと一緒にケバブの屋台に立ち寄った。スパイスが香るケバブはジューシーで、焼きたての香ばしい香りが食欲をそそった。エジプトの青年たちは、口いっぱいに頬張りながら、地元エジプトの味との違いについて盛んに語っている。
僕もケバブにかじりつきながら、ふと先ほどの黒猫の言葉がまた頭をよぎる。「ペトラで待っている」と、あの謎めいた黒猫は言っていた。アンマンの古代ローマ遺跡とは異なる、砂漠にできた古代ナバテア文明の遺跡ペトラ。そこでいったい、なにが待っているのだろう。
「言われなくても、来週ペトラ行く予定だっつーの」
僕は小さく呟いた。僕が不満げに言った一言に、彼らは特に気づくことなくケバブを楽しんでいた。