精霊が連れ去られる夕暮れ
「つまり、亀を助けたのに、おじいさんにされちゃった、ってわけ」
「なんだいそれは。まったく意味が分からないよ」
「いや、それがね。俺たち日本人もまったく意味が分からないんだ」
比奈さんとカフェでお茶をした日の午後、僕は屋上でコーヒーカップを片手に、オマルと他愛のない会話を楽しんでいた。涼しい風が時折吹き抜けて、午後の日差しが柔らかく建物の壁を照らしている。アンマンの喧騒が少し遠くに聞こえ、ここでは時間がゆっくりと流れているようだった。
この安宿が入っているアパートは、古い建物だが3階建てで、さらに3階の廃墟同然のフロアを抜けると屋上へと出ることができた。屋上には、プラスチックの箱がいくつか散らばっていて、箱はそれぞれ椅子やテーブルとして使われていた。外の暑さがひと段落する午後から夕方にかけて、ここはちょっとした憩いのスペースとして利用されている。
僕たちが安いインスタントのコーヒーをすすっていると、黒猫のルナが音もなく屋上に現れた。ゆったりとした歩き方で僕たちの前に現れたルナは、あるところでピタッと立ち止まって、じっと何かを見つめているようだった。その視線の先には、ふわりと漂うクナトの姿があった。もしかするとやはり動物ってやつは、僕たち人間よりも、霊的な存在に敏感なのかもしれない、と思ったその時だった。ルナはそのままクナトに向かってゆっくりと歩み寄り、目を丸くしてじっと見つめたかと思うと、突然その体をパクリと飲み込んだのだ。
「ルナ!」と僕は思わず声を上げた。
「おい、ちょっとルナ、駄目だって!」
僕は、とりあえずパニックになった。いつも壁をすいすいすり抜けている実体のないクナトが食べられたなんて信じられない。僕は慌ててルナに手を伸ばしたが、黒猫はすばしっこく飛びのいて、階下へ戻る階段のほうへと駆け出してしまっていた。どうしても放っておけない。僕も急いでコーヒーを置き、後を追った。
「おいノブ、何があった?」驚いた様子でオマルの声が背後に響いたが、振り返る余裕もなく、ルナの後を追い階段を駆け下りた。ドタドタと二階に降りたところで、今度はタムの顔が飛び込んできた。「ノブ、どうしたんだ、そんなに慌てて?」と、心配する友のよく焼けた健康そうな腕には、のんきにあくびをしている黒猫を抱えていた。まさかと思い、目を凝らすと、それは確かにルナだ。タムの腕の中で、いつものビロードのような柔らかい毛並みが輝いている。
「え?そっちがルナ?」じゃあ、あの黒猫は?考える間もなく、もう一匹の黒猫が一階の玄関を駆け抜け、通りに飛び出していくのが見えた。慌てて階段を駆け降り、僕もその謎の黒猫を追って通りへと飛び出した。
安宿のエントランスを飛び出し、左右を見渡す。いた。黒猫が素早く路地の奥へ消えていくのが見え、僕は反射的に後を追って駆け出した。
猫は軽快な足取りで路地の下り坂を駆け下り、僕はその後ろを転がるように追う。路地は坂に沿って商店が軒を連ね、その前は少し平らになっているが、端には小さな階段があるため、足元に気をつけないといけない。向こうから買い物袋を持ったおじさんが、坂を上ってきているのが見えた。どうにか猫を止めてもらえないだろうか。
「ちょっと、その猫止めて!」英語が通じるかどうかはわからないが、僕は半ば叫び声のように声をかけた。おじさんはこちらを振り向くと、すぐに黒猫を捕まえようと手を伸ばしてくれたが、猫はおじさんの手をひらりとかわし、猛スピードで下り坂を駆け抜けた。おじさんに軽くアラビア語で「シュークラン」と礼を言い、僕も再び追走を始める。猫はその先の交差点で左へと曲がっていった。
角に差し掛かって立ち止まり、左を見やると、猫は交差点を曲がった向かい側の歩道を悠々と歩いている。信号機が変わるのを待って、交差点を渡り、僕は猫を追いかけた。黒猫は気ままに走っては歩き、また走り出すかと思えばゆっくりとした歩みになる。逃げようと思えば、逃げ切れるだろう。もしかして、僕をおちょくっているのだろうか。猫は再び路地へと曲がって消え、今度は上り坂だった。急勾配をものともせず、猫は身軽に駆け上がり、階段もさっと跳ね上がっていく。僕も必死で追いかけるが、上り階段は運動不足の体に応えて、ぜぇぜぇと息が切れてきた。急な坂と階段で足が重くなり、汗がじわりと額ににじんできた。
こんなことは初めてだった。食べられたクナトを心配する一方で、僕はとうとう、あの謎の存在の答えがわかる気がして興奮していた。
狭い通りを凧揚げで遊んでいる子供たちが占領している場所を、なんとかすり抜ける。すれ違う人たちは、はあはあと息を切らして走る僕を不思議そうに見ている。
「いったい、なんだってのさ…!」息を整えようとするが、猫が視界から消えるのが怖くて立ち止まれない。
とうとう、猫と僕はアンマンの中心部にそびえる小高い丘、シタデルと呼ばれる場所にまでやってきていた。アンマンの町を見下ろす古代ローマの遺跡である。普段なら観光客でにぎわう場所だが、不思議と人の数は少なかった。だが僕はそんなことに気が付きもせず、黒猫の後をただただ夢中で追いかけていた。