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旅と地球の淡い夢  作者: 旅崎 ノブヒロ
アンマンの日々
15/41

同郷の人、曰く

「あ、ノブくん、こっちこっち!」

 屋外の雑多な雰囲気とは対照的に、明るく落ち着いた室内のカフェだった。ここは先月オープンしたばかりの新しい店で、内装は明るい木材と温かみのある照明で統一されている。ヨルダンの伝統的なスタイルとは異なり、ヨーロッパ的なモダンさを前面に押し出したカフェになっていた。今日はここで、ある人とお茶をする約束になっている。


 ヨルダンにはお酒を出す店もいくつかあるが、どちらかというと、カフェでのコーヒーや紅茶を楽しむ文化の方が根強い。お酒を提供しないカフェも多く、アラビアコーヒーやミントティーがメニューに並ぶ。こうしたカフェを巡るのも、中東に長めに滞在するならではの楽しみだ。奥の席で手を振ってくれている女性がいた。比奈さんである。


 比奈さんはちょうど僕の母親と同じくらいの年齢で、ヨルダン人の旦那さんと結婚してこちらで暮らしている在ヨルダン日本人だ。この中東の小国ヨルダンにも数百人の日本人が住んでいる。そのほとんどが中東支部の駐在員か、比奈さんのようにヨルダン人と結婚して現地に根を下ろした人たちだ。旅人とはまた異なるかたちで海外と関わっているその姿は、ある種の誇り高さを感じさせる。現地の日本人たちが持っている豊富な情報は、旅人同士の情報交換では得られない貴重なものだ。


 僕と比奈さんが知り合ったのはSNSだった。僕がヨルダンに長期滞在しているのを見かけ、メッセージをくれたのがきっかけだ。海外に住む日本人は、SNSの活用に長けている。彼女は、僕の両親と同世代とは思えないほど、インターネットやSNSを駆使し、現地の様子を日本に発信したり、在住者同士での情報交換をしたりと、生活に役立てているようだった。


 僕が席に着くと、比奈さんが「飲み物どうする?」と声をかけてくれた。店員さんがタイミング良くやってきたので、「じゃあ、アイスコーヒーをお願いします」と注文をした。しばらくして、グラスに注がれたアイスコーヒーが運ばれてきた。氷がグラスの中でカラカラと音を立て、冷たい水滴がグラスの外側を伝っている。手に取ると冷たさが心地よく、口に含むとスッとした苦みが広がり、暑さで火照った体に染み渡っていく。シンプルな味わいだが、この暑いヨルダンの空気にはぴったりだった。


「あ、こないだの焼肉弁当、美味しかったです。ありがとうございます」

 ひとしきり、日常会話をしたあと、僕は綺麗に洗ったタッパーをリュックから取り出して、比奈さんに手渡した。それは、比奈さんと前にあった時に「昨日の晩御飯の残りだけれど」と言いながら持たせてくれたお弁当だった。安宿に帰ってその弁当を食べた時、久しぶりの日本風の味付けに僕は本当に感謝の気持でいっぱいだった。


「いいのよいいのよ、気にしないで。大したことじゃないんだから」

 比奈さんは手をひらひらと振って笑顔を見せた。その穏やかで気さくな様子に、なんだかほっとする。

 僕は一度深呼吸をしてから、「こないだの焼肉弁当のお礼に、ちょっと面白い話を持ってきました」と切り出してみた。すると、比奈さんは興味深そうに身を乗り出し、「なになに?恋バナ?」と、目をキラリと輝かせた。

「いや、そういうわけじゃないんですけど…」

 僕は苦笑しつつも、ここ数日悩んでいることの顛末を一通り話し始めた。旅の中で、しばしば白昼夢を見ること。目の前に漂っているクナトの存在。そして、そのことに困惑している心境を打ち明けてみる。

「えー、じゃあ、ここにもいるの?」

 比奈さんは周りを見回し、少し驚いたように僕に尋ねる。「はい、そこの観葉植物の葉っぱをつついてます」

 比奈さんはさらに首を傾げ、「そっか、ノブくん、占いとかやってるもんね。なんか、第六感とかするどいんだわ、きっと」と、軽く肩をすくめて納得した様子を見せた。たしかに、僕はオンラインで占いの仕事をして旅の路銀を稼いだりしているが、昔ながらのやり方でカードの意味を読み解いたりしているだけなので、霊感なんてものはこれっきしなかった。クナトの存在はそれとはまったく別物だ。



「まぁ、いいんじゃない?ちょっとしたらまた、消えるんじゃないかしら」と、比奈さんは楽しげに笑って、あっけらかんとした様子で僕にアドバイスをくれた。

「あたしもう、こっちに住んで30年に近いからね。人生、何があっても、たいていのことでは驚かないのよ」

 比奈さんは少し得意げに微笑みながら、僕の顔を覗き込むように見つめて言った。その表情には、長い異国の地での生活の中で培われた余裕や達観が感じられて、僕も自然と肩の力が抜けていくのを感じた。


「たしかにね、結局何事も、案外なんとかなるものですよね」

 そう答えながら、僕も少し笑顔を浮かべていた。比奈さんはゆったりと頷き、「そうそう、なんとかなるのよ」と優しい口調で繰り返す。その言葉はただの励ましではなく、実際にここで生き抜いてきた人だけが持つ力強さがあった。一緒にひとしきり笑い合うと、不思議と心がほぐれ、ここ数日どこか忘れていた楽観的な気持ちが戻ってくるようだった。


「そうそう、そういえばノブくん、来週の火曜日って空いてる?」

 比奈さんが、ふと大事なことを思い出したように声をかけてきた。彼女が楽しげに身を乗り出しているのを見て、何か面白い計画があるのだろうと僕も期待した。

「来週の火曜日、」と僕はカレンダーを思い浮かべながら考えた。しかし残念ながら、その日はついにヨルダン最大の遺跡ペトラへ行こうとタムと約束をした小旅行の最中だった。もうレンタカーの予約をしているので、予定を変更できそうにはない。僕が「その日、僕ちょうどペトラです」と申し訳なさそうに伝えると、比奈さんは「あらぁ、それは残念ね」とがっかりした様子だった。

「実はね、みんなでマクルーバを作ってパーティーするのよ」と比奈さんも申し訳なさそうな声で続けた。「うちのちび二人も参加するし、りえさんの一家に、サラちゃん、それに駐在の俊くんも来る予定なの。せっかく、ノブくんも呼ぼうと思ってたのに!」

 顔見知りのメンバーがほぼ勢揃いする予定らしく、僕は「うわぁ、それはいいですね」と羨ましそうに返した。


 マクルーバは、ヨルダンや中東地域全体で人気のある料理で、その豪華さと見た目のインパクトから、お祝い事などの特別な日に作られる、パーティーにぴったりの料理である。深めの大鍋に、カリカリに揚げたトマトやジャガイモ、カリフラワー、ナスなどの色とりどりの野菜を丁寧に層状に敷き詰め、その上にじっくりと煮込んだ肉と米を載せて炊き上げる。そして、仕上げに大きな皿を鍋にかぶせて一気にひっくり返すのが最大の見せ場だ。鍋を反転させると、野菜と肉が米の上にきれいに並び、みんなで一斉に鍋の底を叩いて「おいしくなれ!」と声をかけるのが習わしだ。マンサフと並んでヨルダン料理の定番だが、マクルーバは特にパーティーやお祝い事に用意される料理で、みんなの気持ちが高揚する。


「え~~、おれもマクルーバ食べたい~~!」と、ちょっと大げさに言うと、比奈さんはおかしそうにクスクス笑って、「まぁまぁ、また帰ってきたら企画してあげるわよ」と軽くうなずいた。

「それに、ペトラに行けるのもいいじゃない。なんたって、ペトラはヨルダンで一番のパワースポットよ!その謎の“悪霊”の正体も、もしかしたら分かるかもよ?」

 比奈さんはそう言って、少し目を細めながらにっこりと笑った。その言葉を聞いて、僕もつい「それもそうですね」と笑いながら返す。ペトラで何か新しい発見があるかもしれないという彼女の冗談じみた期待に、僕もどこか心が少し踊るような気がした。

挿絵(By みてみん)

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