古代の器が見せる夢
僕が長々と博物館の展示を堪能している間も、クナトはふわりふわりと僕の後ろをついてきていた。薄暗い展示室に浮かぶ半透明の金魚のような尾ひれが、博物館の静けさの中で、どこか幻想的に見える。クナトは、気がつけばすっかりペットのような存在になってしまっていた。
確かに、よくよく思い返してみれば、今までも少しの間だけなら消えずにそばに留まっていたこともあったかもしれない。ただクナトのこととなると、不思議と記憶に残りにくく、どうも忘れっぽくなってしまう節がある。それでも、5日間も出ずっぱりで僕について回るのは今回が初めてだった。ふと横目で浮遊する魚に目を向けると、僕の動きに合わせてゆらりと揺れている。
「お前がずっと出ていると、いつ白昼夢に襲われるか、僕は気が気じゃないんだけどな」と、ぼやきながら、目の前に漂うクナトのほっぺをツンと指でつついてみた。すると、触れた感触が確かに指先に伝わってくる。小さな風船のようにふくらんでいたクナトの体は、無重力空間に浮かぶ物体のように、僕の指の動きに合わせてゆっくりとくるくると回転を始めた。ここ数日でわかったことだが、触れられるときと触れられないときがある、不思議なやつだ。
薄暗い展示室の中は静寂が支配しており、クナトが時折ガラスケースに反射して映り、数々の展示物の中を異質な命が泳いでいるかのようだった。そして僕は、まるで自分だけが知っている秘密の友人が、いつもそばにいるような不思議な感覚になるのだった。
「タムの言う通り、ある種の精神障害だって考えるのが妥当な気もするけどさ」僕は小声でつぶやいた。
しかし、そう思うにしては、自分自身があまりにも冷静すぎた。いつでも心にゆとりがあるのは、僕が自覚している僕の長所のひとつで、そのせいでどうしても不真面目に見えてしまい、逆に批判されることのほうが多いのだ。精神的な疾患でないとするならば、やはり超常的な何かなのだろうか。よくて精霊、あるいは悪霊。八百万の国に生まれた僕たちだもの、何が憑りついても不思議ではない。
そうだとすると、こいつは、何か大切なことを伝えようとしているのか、それとも単なる気まぐれで僕について回っているのか。こいつはいつもただ黙っているだけで、そもそもまともなコミュニケーションが取れたためしはなかった。少なくとも言葉を交わせるような存在ではなさそうだが、だからこそ、もしかしたら旅人の守り神のようなものなのかもしれないとも感じていた。
「それにしても、いつもはすぐ消えるくせに、なんだって今回はついて回るんだ」
そうぼやきつつ、そろそろお暇しようかと思っていた、その時だった。
「あらー、なにこれ、面白い」と、ひときわ目を引く展示品が目に留まった。ガラスケースの中にあるのは、どこか日本の土偶に似た、人の形をした陶器の像だった。そのフォルムはデフォルメされ、頭部には顔がなく、代わりに壺がくっついているという不思議な造形だった。まるで、壺を頭に抱えた奇妙な存在──まさしく”ツボ星人”だ。説明文を読むと”紀元前3600年頃”とある。ははぁ、ずいぶん昔のものらしい。「まるでツボ星人だね」と、僕は小さくつぶやいた。
陶器でできた人形は、無表情なのに愛らしさがあり、どこか日本の埴輪のような、ゆるい魅力があった。なんとも微妙なバランスのとれたフォルムに、僕は思わずその場でじっと見入ってしまう。
そうしてまじまじと見ていると、不思議なことが起きた。ガラスケースの中のその陶器の人形の頭が、かしげるように微かに揺れた。僕は一瞬、目を疑って思わず瞬きをしたが、見間違いではなかった。確かに、右に左に、頭のツボが動いている。陶器でできているはずの人形が動いたのだ。次の瞬間、陶器の手がくにゃりと曲がり、まるで手招きをするかのように、ちょいちょいっと動いた。ぞくり、と背筋が冷えるのを感じる。
「はやくおいでよ」
目も口もない陶器の人形だったが、どこからか脳内に直接響くような声が聞こえた気がした。混乱しつつも、僕はその場から動けず、ただその奇妙な展示品を見つめ続けた。だが、次の瞬間、陶器人形はガラスケースを突き破るようにして、バリンッという大きな音とともに勢いよく飛び出し、何かに呼ばれるように博物館の出口へと走り出していった。
「え、ちょっと…?」あっけにとられて僕はその場に立ち尽くし、まるで幻を見ているかのように、その場を見つめたまま動けなかった。
人形は出口に向かってトタトタと軽やかに走り、やがて見えなくなってしまった。どうするべきかも分からず、僕はしばらくその場でぼんやりしていたが、ふと我に返って、振り返ってみた。すると、ガラスケースには割れた跡もなく、陶器の人形は静かに、まるで最初からそこにいたかのように鎮座している。
「ちょっと、今のもクナト?心臓が止まるかと思ったんだけど」と、気持ちを落ち着けるようにそばのクナトに話しかけた。すると、クナトは”違うよ”とでも言うように、僕の前をジグザグに泳いで見せた。クナトが反応をみせたことに、少しだけ驚きながらも、未だに残る奇妙な記憶に手足がもぞもぞとした。あれは一体なんだったのだろうか。
宿に帰りつくと、あたりにはわくわくするような香ばしい香りが漂っていた。ムハンマドがキッチンで晩御飯の準備をしているところらしく、炊き込みご飯のような香りに混じってスパイスの香りも漂ってくる。
「ホホㇹ、おかえり~、ノブ」ムハンマドは、丸々とした顔に満面の笑みを浮かべ、厚みのある手で手招きしながら声をかけてくる。彼のその顔を見ると、何だか疲れがふっと軽くなるような気がした。「ただいま~」と僕が返すと、ムハンマドは僕の顔をじっと見て、眉をひそめながら心配そうに尋ねてきた。
「どうしたの、なんだか疲れた顔をしているけど?」まんまるの目が柔らかく微笑んでいた先ほどとは少し違い、少し真剣な表情に変わっている。「いや、ちょっと外が暑かったから」と、僕は少しオーバーなリアクションをして見せた。
「今日の晩御飯、みんなでマンサフね。ノブ、食べるなら3ディナールね」
マンサフはヨルダンの国民食ともいえる料理で、要するに羊肉の炊き込みご飯に近い。よくカリカリのナッツを上に散らして、それがまたたまらなくおいしい。ヨーグルトソースをかけて食べたりもする。また、これはマンサフに限った話ではないが、大皿に盛りつけたものを、みんなで食べるのもこの料理の特徴だ。
この宿は少々古びてはいるが、どこか人の温もりがあって、こうして戻ってくると一息つけるような安心感がある。ムハンマドのゆるくて和やかな雰囲気も、僕にとっては癒しだった
「うん、ありがとう。いただくよ」僕は、右手でグッドのサインを出して応じた。ムハンマドが心配してくれるその気持ちがありがたく、こうして食事に誘ってくれることも心強かった。さっきまで感じていた不安や疲れが、少し和らいだ。僕は次第に博物館での疲れを忘れ、今夜のマンサフを楽しみにしながら、とりあえずシャワーを浴びるべく、部屋へと戻っていくのだった。