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旅と地球の淡い夢  作者: 旅崎 ノブヒロ
アンマンの日々
12/41

南国の出会い

 こいつの名前はクナト。といっても、僕が勝手にそう呼んでいるだけなのだが。

 僕にクナトが見え始めたのは、日本を離れ、旅を始めておよそ1年が経とうとする頃だった。ラオスの山奥で突然、謎の高熱に襲われ、一週間近く寝込む羽目になった。普段なら安い相部屋に泊まるのが常だが、その時ばかりは耐え切れず、少し無理をして一人部屋を借り、ひたすら部屋で寝続けた。筋力にはあまり自信がないが、体の丈夫さには少し自信があり、日本にいた頃にもこれほどの病気はしたことがない。基本的に僕は、日常的な体調不良なら、焼肉やカツ丼などの好物を一気に食べてぐっすり眠れば治るものと信じている。

 だが、この高熱ときたら、ラオスの美味しいマンゴーやカオチー(ラオス風のフランスパンで肉と野菜を挟んだサンドイッチ)をどれほど頬張っても効き目がなかった。僕はちょうど、中国南部を周遊し、陸路でラオスに入ったばかりだった。大きなバスや小さなバスを乗り継ぎ、2日間かけての移動で体力もかなり消耗していた。その道中、どこかで変なウイルスでももらったのかもしれない。今にして思えば、最後に立ち寄った中国の昆明市は空気が少し濁っていて、妙に重苦しい感じがしていた。


 旅の疲れが溜まっていたせいか、僕はラオスに着くとすぐに体調を崩し、高熱と共にめまい、頭痛、悪夢のループに陥った。熱にうなされる日々は終わりが見えず、悪夢と現実が混ざり合い、気がつけば夜になり、また夜が明けているのを繰り返していた。日本から持ってきていた常備薬は使い果たし、現地の薬局で買った解熱剤や風邪薬をスポーツドリンクで流し込んでなんとかしのいでいた。

 寝込み始めて八日目の朝だった。ようやく体が軽く感じられた。扉を開けると、外はスコールで激しい雨が降っていた。重い雲が空を覆い、今が何時なのかもわからない。遠くから雷鳴が聞こえ、雨がもたらす冷えた空気が熱っぽい体に心地よかった。湿り気を帯びた風が生き返るような感覚をもたらしてくれる。久々の外の空気に誘われ、雨の中、僕は宿の外に出てみた。濡れた土と青々とした植物の匂いが混じり合い、鼻腔をくすぐる。

 宿の目の前には東南アジアの母なる大河、メコン川があった。雨を受けて土色を増した川は、茶色い奔流となって荒々しく流れている。その激流をぼんやりと眺めていると、不意に川の中に大きくうねる影が見えた。蛇のような、あるいは龍のようにも見えた。そして、僕がその影に気づいた瞬間、そいつは勢いよく川から飛び出し、雨の中をくねりながら空へと昇り、分厚い雲の中に消えていってしまった。それは一瞬の出来事で、あっという間に見えなくなった。あまりにも現実離れした光景に、僕は立ち尽くしていたが、「きっと高熱で変なものを見たんだろう」と気を取り直した。


 空腹を感じた僕は、そのまま近くの屋台までサンダルで歩いて行って、カオピヤックセンを頼んだ。屋台の雰囲気で、僕は今が夕方時であることを知った。カオピヤックセンが来る。スープの香りを鼻から吸い込むと、熱気に満ちた湯気がぼんやりと視界を覆う。モチモチとした米麺に、鶏だしのあっさりとしたスープが絡み、体に染み入るようだった。僕はしばらく目を閉じて余韻を味わいながら、一気に麺をすすって平らげた。体も心もその一杯で満たされた気がして、宿に戻って眠りについた。その日はもう悪夢に悩まされることはなく、今までで一番深い眠りに沈み、翌朝にはすっかり体が軽くなっていた。ようやく完全に熱が引いたのを実感した。


挿絵(By みてみん)


 それからというもの、旅の最中にふとした瞬間、この不思議な生き物を目にするようになった。蛇のようで魚のようで、時には深海の巨大生物のような半透明の体をした謎の存在。決まって現れるのは束の間で、気が付けば視界から消え去っている。だが、こいつが現れるたびに、僕は軽い立ち眩みに襲われて、奇妙な白昼夢を見たりするのだ。いくつもの白昼夢を見てきたような気がする。夢の内容を記憶していることもあるが、そのほとんどは、目覚めた途端に掻き消えるように忘れてしまう。夢見たことすら、記憶に残らない場合もたくさんあったのかもしれない。

 最初の頃はこの現象が気になったが、クナトはただ現れては消え、不思議な夢の残像が後を引くだけだった。特に害があるわけでもなく、僕はその存在を次第に気にしなくなった。しばらくして、適当につけた「クナト」という名前を自然と呼ぶようになった。インドで読んだある書物から名前を拝借しただけだが、不思議と自分の中でしっくりと馴染んでいった。


 そして一年が経ち、僕は今、アンマンのカフェでとうとう消えなくなってしまったクナトを前に頭を抱えている。もっと早くに手を打つべきだったのかと後悔もするが、もとより打てる手などあるのかどうかさえわからない。せっかく旅の途中で世界の有名な寺院や教会に寄ったのだから、お祓いでも受けておけばよかったかもしれない。

 これまでは一瞬現れる程度で気にならなかったが、常時そばを回遊されるとわけが違う。考え込んでも何も解決しないと分かっているのに、どうしても気にせずにはいられないのだ。「まいったね、これは」再び僕の口をついて出た言葉に、カフェのウェイトレスが一瞬こちらを不思議そうに振り返ったが、すぐにそっけなく去って行った。肩をすくめ、僕は残りのコーヒーを一気に飲み干すことにした。苦い風味が喉を滑り落ちるたびに、妙に現実へと引き戻されるような気がする。

 舌に残る中東菓子の甘みを感じながら、僕は椅子から立ち上がった。レジで会計を済ませ、ふわりふわりと漂うクナトを引き連れてカフェを出る。扉のベルがカランと鳴り響き、外に出るとアンマンの喧騒が耳に飛び込んできた。古びた舗装と新しいアスファルトが交じる通りには、トーブやヒジャブをまとった伝統衣装の人々とTシャツ姿の若者たちが行き交い、絶え間ない声と音で満ちている。スパイスと香ばしい肉の香りが風に乗って漂い、頭上ではカラスが鋭い声で鳴いていた。。前方には、遺跡がちらりと見える場所があり、あの古代ローマ時代の円形劇場が現代の喧騒の中でただ静かに佇んでいた。


 カフェを出たその瞬間、アンマンの喧噪が一瞬ぼやけた気がした。目の前にあったはずの3階建てのレストランが忽然と姿を消し、広々とした空が視界に広がる。行き交う人々の姿に、何か別のものが重なって見えた。土に汚れたローブ姿の西洋人が、スマートフォンではなく植物の蔓で編まれた籠を抱えている。大通りのアスファルトの道路が古びた石畳に変わり、馬車が悠々と移動している。僕がひとつ瞬きをすると、景色は元通りになっていた。大通りには再び車が行き交い、エンジン音とクラクションが響き渡っている。カフェの扉を背にしながら、僕は深い息をついたけれど、僕の感じた違和感は、客引きの大声と群衆の雑踏の中へと消えていった。

挿絵(By みてみん)

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