第1話 一年後
閑静な住宅街にある、二階建ての一軒家。
その二階にある、机と本棚とベッドがあるだけの、何の面白みもない自室で目を覚ました黒髪の少年――梶原信吾は、寝起き直後とは思えないほどテキパキと寝間着から学生服に着替え、昨夜の内に準備を済ませていたリュックを手に階下に下りていく。
玄関にリュックを置いてリビングに向かうも、普段はそこにいるはずの同居人の姿が見当たらないことに小首を傾げる。
今日は信吾の高校の入学式。
ゆえに同居人は、普段朝食の準備を担当している信吾に代わって朝ごはんをつくると昨夜から息込んでいたはずなのだが……どうせいつものように寝坊しているだけだろうと思った信吾は、顔を洗うために浴室の脱衣室兼洗面室に足を運ぶ。
信吾はほどなくして洗面室に辿り着き、扉を開ける。
直後、
同居人――梶原恵の裸体が、信吾の視界に飛び込んできた。
異性ならば誰もが目が釘付けになる豊満な胸。
唯一大事なところを隠している大人の下着。
背中にかかるほどにまで長い、濡れ羽のような黒髪。
双眸は前髪で隠れているものの、一目見ただけで誰もが美人だと確信するほどに整った顔立ち。
これだけの要素が揃えば、健全な男子高校生ならば喜ぶなり狼狽えるなり、何かしらの反応を見せる場面だが、
「あ、すみません」
信吾は波紋一つない水面のような平静さで一言謝ると、何事もなかったように扉を閉めた。
「ないわ~。それはないわ~」
そんな言葉とともに、恵の方から閉めたばかりの扉を開けてくる。
サングラスをかけている以外は一秒前と変わらぬ裸身を、惜しげもなく披露して。
「いい、信吾くん? 普通の男子高校生が、わたしみたいな美人でナイスバディなお姉さんの裸を見たらね~……赤面確実、チ○コだってカチンコチンってもんなのよ」
「普通の成人女性は、裸のまま堂々と男子高校生の前に現れないと思いますが」
抑揚の欠片もない指摘に、恵が「んぐっ」と口ごもる。
「さらに言えば、普通の成人女性は自分で自分のことを美人とは言わないと思いますが」
「い、いいでしょ。本当のことなんだから」
「あと、ナイスバディという言い回しは、今はあまり使われていないと思いますが」
「え? マジ?」
割りと本気で驚いている恵をよそに、信吾はこれまでの会話など心底どうでもいいと言わんばかりに切り出す。
「それで、なんで朝っぱらからストリーキングなんてしてるんですか」
「ストリーキング言うなや。昨日も言ったとおり、今日は信吾くんが生まれて初めて学校に行く日だから、代わりにわたしが朝ごはんつくってあげようと思ったんだけど……ちょ~っとケチャップをぶちまけちゃって、掃除してるうちに髪とか体にもケチャップが付いちゃってね~」
「要するに、ケチャップを洗い流すためにシャワーを浴びていたと?」
コクンと恵は首肯する。
無表情に等しかった信吾の眉根が、〇・〇一ミリほど内側に寄る。
「とりあえず、恵さんはさっさと服を着てください」
「お? さすがにお姉さんの裸を見るのが恥ずかしくなってきたか~?」
「警察呼びますよ?」
「いやいや、警察はここにいるから」
親指で自分を指し示しながらドヤ顔を浮かべる恵を無視して、信吾は話を締めくくる。
「このまま恵さんに任せていたら入学式に遅れてしまいそうなので、朝食はオレがつくります」
「……は~い」
と、露骨に渋々している恵を見て、信吾は何を思ったのか、
「夕食は期待させてもらいますから」
そう言い残すと、すたすたとリビングの方へ戻っていった。
「ったく、急に可愛げ見せてくるんだから」
無表情な少年が見せる不器用な優しさに苦笑しながら、言われたとおりに服を着るために恵は洗面室の扉を閉めた。