005 麗しの……
ゴードンは、ようやく気付いた。
何か変だと思っていたが、やっと解ったのだ。それが何か。
先刻から物音がする。
シュルツ補佐官が何かをする度に……そしてその音がここの空気を不穏な感じに “かき回して” いるのだ。
「どうした? ステファン」
また、だ。
補佐官は質問には答えず、スクリーンのタッチ音を立てている。
気のせいではない。
いつもより大きい。そして……いささか乱暴だ。
ゴードンも二度は訊かない。
言いたいことがあるなら話せばいいのだ。
相手の苛立ちに気づいたからと言って、無理に聞き出そうとは思わない。
やがて、補佐官が顔を上げた。
「よろしいのですか? 本当に?」
ゴードンは唇を引き結ぶ。
―――これではっきりした。
補佐官の “不機嫌さ” の理由が。
「……カガだな」
ボソリと呟く。相手の耳に届かぬように。
果たしてそれが聴こえなかったのかどうか、ゴードンに向かって放たれたのは、補佐官の尖った声だった。
「本気でドゥミ・プルミエ・スクレテール(準一等秘書官)に? いきなり?」
ほんの一瞬、目に見えぬ何かが、室内の空気を突き抜けた。
「私の決定に反対なのか? 大佐は」
シュルツは目を瞬かせた。
―――“肩書呼び” か!
ふだん名前で呼ぶ相手をヴィクトワール大統領が肩書で呼ぶ時、それは大統領が相手に立腹していることを意味する。
それが側近の場合は、特に。
だが、シュルツがここに居る意味は、大統領の機嫌を損ねないようにすることではない。
時には苦言を呈するのも勤めなのだ。実務補佐官としての。
「準一等秘書官に、ということは、つまり少尉を秘書室長になさる腹積もりですよね?」
「む……まぁ、それは……いずれはそういうことになるだろうな」
「ここでの経験がゼロなのに、ですか? いきなり秘書室長とは、あまりに性急かと」
「大佐は、少尉が彼らに劣ると?」
壁の向こうの連中―――秘書官たち―――のことだ。いま、大統領が顎で指し示している “彼ら” というのは。
「いえ、そういう意味では」
「では何が問題だ」
「少尉が今まで経験してきたのは、あくまでも軍の組織です。100パーセント軍属者。翻って、ここの半分は民間人。それも政治屋と官僚ですよ?」
「―――だから?」
「試用期間を飛ばすおつもりですか」
軍組織から行政や民間に初めて出向する軍属者には、半年は職位を定めないのが普通だ。
試用期間として適性を見る。
「スキルが高くても民間人とはうまくいかない者もいます。デュフィ中尉、いえ、少佐とてそのステップを踏みました。今までに例外はありません」
「なるほど」
ゴードンは椅子を回し、正面からシュルツの顔を見据えた。
「君の言うことにも一理ある。平時ならば、確かにそうだ」
―――そら来た。
シュルツは身構える。
必ずこうやって引いてから懐柔に掛かるのだ。この人は。
「しかしな、大佐。デュフィをああいう形で喪ったのは想定外だった。誰にとっても、だ。つまり、今、ここは不測の事態にある。そんな中で、カガ少尉を慣習通りに半年間、平のまま試用したら、あのハイマーが黙っていると思うか?」
「そ……それは……」
言葉を継げなくなった。
ハイマーとは、壁の向こうで第二秘書官に位置する軍属出向者だ。
元の所属は陸軍第一部、現在の階級は准尉である。
実務処理能力は高い。報告書の巧みさと速さにかけてはデュフィも舌を巻くほどだった。
だが承認欲求が強すぎて協調性に欠け、問題行動も多い。
デュフィが死んだ後、すぐに自己推薦で昇格審査を受け、その結果も出ないうちから次の秘書室長は自分だと言わんばかりの態度なのだ。
黙るシュルツに、ゴードンは畳み掛ける。
「ハイマーの昇格はない。私が却下した。だが、自分より上官の新入りがヒラで来たら、奴は黙っていないだろう」
「エクセランス。ただ……」
ゴードンの両手がシュルツの前でひらひらと舞う。
「もういい、解った。ステファン」
“名前呼び” にホッとしたのも束の間。
待っていたのだ。爆弾が。
「皆まで言うな。お前はこう考えているんだ。命の恩人、友人の推薦……それなら中尉に昇進させるとか、そこそこ妥当な褒賞を与えて家族付き合いでもすればいい。何も職場に迎え入れることはないじゃないか、と」
「………」
―――図星、である。
まさにその言葉通りのことを思っていたのだ。
だが……ゴードンがそこまで解っていて、なお、譲らないということは……つまり、ゼロということなのだ。決定を覆す可能性は。
「お前は “二の舞” を危惧しているんだ。そうだろう?」
5年前、秘書室に欠員が出た時、当時の副大統領に頼まれてハイマーを採用したのは、他ならぬゴードンだった。
「言っておくがな、ステファン。オウェンはな、あのコーデルが絶賛の推薦状を書いたと言っているんだ。最高秘書官として迎え入れてもいいぐらいだぞ」
もちろんゴードン自身も判っている。
特に、最後の一言は余計だったと。
最高秘書官の地位は中尉以上にしか与えられない。
「……とにかく、この話は終わりだ」
シュルツとの会話を一方的に終わらせ、ゴードンは椅子を元に戻した。
手元を遮りたかったのだ。補佐官の視界から。
その手のEBLOには、オウェンが残していったデータがあった。
自分の決断を疑ってはいない。露ほども。
逸材を確保できる機を逃さなかった。
だが、一点の下心もないかと聞かれれば否定はできない。それも事実だ。
その後ろめたさゆえ、これからしようとしていることを見咎められたくなかった。
データにアクセスする。
眺めたかった。ただ単純に。
エドワード・カオル・カガという青年の姿を。
灰水色の少尉の制服。全身像、そして上半身の3D写真。
――――美しい。
3D写真は誰でもちょっと間抜けに映るものだ。
どこを見ていいか迷うし、2Dの撮影より判りにくいから。いつ始まって、いつ終わるのか。
なのに、だ。
それなのに……美しいではないか。
照明角度を変化させてみる。
―――逆光ポジションだ。そう……あの丘で一目見た時のように。
思わず、息を呑んだ。
ゴードンには、美しさを言い換えるような語彙の豊かさはない。
ただ美しい、としか言えない。
エドワード・カオル・カガは、父親の姿に母親の色素が見事に重ね合わさっている。
目鼻立ちと長い睫毛はエリオットに瓜二つ。
明るい髪の色と肌の色はミレイユゆずりだろう。
瞳の色は、まさに混ざっている。2人が。
不思議な色合い……青みがかった緑の虹彩。
そこに顕れている、ブラウン? 赤紫にも見える色……
2つの色を持つ宝石のようだ。
少尉の姿に見入るうちに、ゴードンは、ある考えに行き着いた。
解離性健忘……その記録だけが彼の存在を隠していたわけではないだろう。
これほどの美貌だからこそ、エドワード・カオル・カガは、埋もれていたのではあるまいか。
思い出す。
少尉が応接室に入って来た時のことを。
彼は、ゴードンをまっすぐに見て、笑みを浮かべたのだ。
『ああ良かった。ご無事で』
そう言って。
まるでル・ラランティのように花開いて行く。ゴードンの記憶の中で、その一瞬が。
―――あれはまさに “開花” だ。あの笑顔は。
晴れ晴れと眩しく、艶やか。
心が安らぎ、解放された。ありとあらゆるストレスから。
その笑顔には、確かにあった。負の要素を払拭する力が。
あの時ゴードンは感じたのだ。
強い欲求―――“この笑顔をいつも傍に置いておきたい” という―――が、自分の中に湧き出て来るのを。
これまで彼の上司であった者たちの多くが、同じような想いを抱いたのではないか。
だからこそ、その存在を表に出さないようにしたのでは……?
脳裏に過ぎる。
少尉の答え。
『なぜ狙撃と判ったのか』 と、ゴードンが尋ねた時の答えだ。
『わかりません』
少尉は、少し首を傾げた。
そして、続けた。
『体が、勝手に動いていました。気配を感じて、煙を見て。ただあなたを守りたかった。それだけです』
その言葉を思い出した時―――正確には、そう言った時の少尉の顔を思い浮かべた時―――ゴードンは、ある感覚に襲われた。
胃の腑を何かにギュッと鷲摑みにされたような、体が中央に引き込まれるような感覚。
何度も経験して来た。
この感覚を。
ゴードンは、慌てて頭を振った。
「違う……!」
それはごくごく小さな呟きだった。
にもかかわらず、大佐の注意を引くには十分だった。
「エクセランス? 何か?」
ゴードンは身振りで “なんでもない” と否定した。
蘇る。
耳の奥に、オウェンの笑いが。
『もうひとつの懸念は?』
ゴードンが、そう口にした時。
オウェンは笑い出したのだ。
でっぷりとした腹を抱えて。
『ハッハッハッ! アル、そいつは君の胸に聞いてくれ。君自身がいちばん良く判っているはずだ。だが、彼はヘテロだからな! 残念ながら!』