001 ステンレス・ハート
―――何だ!?
エンゾ・コーデルは、咄嗟に足を止めた。
ゼィロビーク空軍准将にして情報局副局長ならではの条件反射だった。その “停止” は。
目の前に横たわる、白い物体。
濃い灰色の大理石の上、ほんの鼻先数10センチのところ。
それだ。
たった今、コーデルの目の前を翳めたものは。
いつもより早めのランチを済ませ、厳重なセキュリティを通過し、エントランスホールを横切ろうとした時……
―――白鳩?
光、だ。そう見せているのは。
吹き抜けの天窓から降り注ぐ、太陽のまばゆい光が。
「―――やめろって!」
コーデルは、声を振り仰いだ。
―――バルコンか!?
揉み合う人影が、視界の隅を掠める。
―――階段の方が早い!
しかしコーデルが駆け上がると、騒ぎはすでに収まっていた。
バルコンの角。圧し掛かっている3人は、全員、コーデルの部下だ。
一方、制圧されている側は……
「君……空二のカルドーザじゃないか?」
白地に黒と銀の1本線。中尉の制服だ。
大柄な体躯の右手に握っているのは、ズタズタに折れた緑の束。
浅黒い顔は、無念そうに歪んでいる。
捻じ伏せられたその頬には、水滴が伝っている。
それは、汗ではなかった。
* * *
「さて、誰か説明を。何があった?」
自席に就くなり、コーデルは睨み据えた。
3人の部下を。
中尉は応接室へ案内済み。
別の部下をつけ、落ち着くまでそこで監視するように命じてある。
「それは……」
口を開いたのは、ルイス・モレイラ少尉だった。
30分ほど前だったという。
純白のカラーの花束を携えた男が忽然と現れたのは。
ダニエル・カルドーザ中尉だった。
ビューローは静か。
ちょうど早番がランチに出かけた後で、電話も鳴らない。
その穏やかな空気が、一瞬にして切り変わったのだ。
この “部外者” の出現で。
2メートルの長身と厳つい肩幅を覆う、準礼装の制服と制帽。
そして、その白い制帽と真っ白な花の間には、赤黒い顔が―――
その異様な光景は、皆を硬直させ、視線を釘付けにした。
中尉は突き進んだ。一直線に。
その場に居合わせた全員の視線を集めながら。
その先にあるのは、カガ少尉の席だけだ。
やがて事務所全体に響き渡った。
掠れた、大きな声……
「カ……カガ!! つ、付き合ってくれ! お、俺と!」
すべてが凍り付いた。
エドワード・カガ少尉。
渾名は “クール・ディノックス”、すなわち “ステンレス・ハート”。
あるいは “ビューティー” とも呼ばれている。
“ステンレス・ハート” の由来は、怜悧なその頭脳だと言われる。
確かに……彼は頭がいい。ずば抜けて。QIも高い。
しかし “QI 195” だけではないのだ。その名が軍内に広く浸透している理由は。
“カガ少尉は何人の好意も意に介さない。決して”
もうひとつの渾名、“ビューティー” が示すように、その美貌はゼィロビーク空軍一とまで謳われる。
にもかかわらず、浮いた噂が一片もない。
18歳の入隊以来、相手が女であれ男であれ、どんなアプローチにも応じたことがないのだ。
―――堅物?
少し、違う。
普段の少尉は柔和だし、清濁併せ飲むような柔軟な対応を取ることもある。
時には “必殺級” と呼ばれるその笑顔を見せることもある―――仕事の時は。
しかし、色恋が絡むと、話はまったく別。
ゾッとするほど冷たいのだ。
その冷たさ、徹底した無関心さゆえに、陰では “朴念仁” とまで言われる始末。
―――その “ステンレス・ハート” に!?
よりによって、あんな迫り方をするなんて!!
誰もが固唾を飲み、成り行きを見守る。
カルドーザの額からは大量の汗が流れ落ち、差し出した花がぶるぶると震え始めた。
やがて、“ステンレス・ハート” は静かに口を開いた。
「付き合う? あなたと? なぜですか?」
無機質な声。
涼やかな瞳が、冷たさを増す。
美しいその唇に、一切、笑みはない。
もう、答えは出たも同然。誰が見ても。
だが、通じなかったのだ。肝心のカルドーザには。
認めたくなかったのだろうか?
いや、認められなかったのだろう。脈が無いとは……
そのせいで、判断を誤った。
食い下がってしまったのだ。引き際を見定め損ねて。
「な、なぜって……君が好きだから! 君と一緒に居たいからだよ!」
“ステンレス・ハート” は長い睫毛を上下させた。
静かに、その視線が移っていく。
相手の顔から花束……そして、自分の手元へ。
気まずい沈黙。
しばらくして、“ステンレス・ハート” の唇が動いた。
カルドーザをではなく、宙を見たまま。
「どうぞ、お引き取りを願います」
まるで前世紀のロボットの音声のようだった。
* * *
「やれやれ……」
席に戻ると、コーデルは溜め息をつき、部下を見た。
「カガ、ちょっとそこに座れ」
コーデルが指したのは面会者用の椅子だ。
そこならビューローの皆からは死角になる。
カガ少尉はほんの少し戸惑ったが、すぐに上官の指示に従った。
「今、モレイラがカルドーザを医務室に連れて行ってる」
「……」
「何か、言うことはないのか?」
「は……」
「奴と何があったんだ」
「奴? カルドーザ中尉と、ですか?」
コーデルが頷くや否や、カガ少尉は決まりが悪そうな顔をした。
「……何も……」
「何も? 大の男が何の理由もなしに身を投げようとはせんだろう」
「そうおっしゃいましても……本当に、何も」
「士官学校で一緒だったとか?」
「いえ」
「接点はないのか?」
カガ少尉の顔が僅かに傾ぐ。
「……最近……」
「何だ」
「合気道の稽古場に、彼が来て……」
「いつ?」
「先月、です。異種訓練をしたいとかで。話をしたのはそれが初めてでした」
「稽古は?」
「もちろん、つけました」
「……奴を投げ飛ばしたのか!? あの巨体を?」
「はぁ、それはまぁ……彼は初心者ですから」
カルドーザ中尉はレスリング100キロ級の選手でもある。
一方のカガ少尉も合気道八段の “師範” だ。
コーデルは思った。
―――あり得る。
華奢な見かけの少尉に、思いがけず投げ飛ばされたなら……
そのショックが恋を呼ぶことも。
「稽古は何度ぐらい?」
「え……確か、週1回で、3、4度でしたか……あまりはっきりとは」
「ふむ……」
―――惚れて、毎週会ううちに1か月、か。胸の高鳴りが抑えきれなくなる頃だな。
コーデルはその考えを口には出さず、目の前の青年を窺い見た。
交際を迫って来た相手を冷徹に退け、そのせいで自殺騒ぎまで起きたというのに、まるで関心がないといった風情。
「君はなぜ、そうも冷淡なんだ?」
思わず出た、本音だ。
「冷淡、ですか?」
「む。まぁ、そう見える」
「冷淡……」
少尉の口元に笑みが浮かぶ。気の抜けたような笑みが。
「冷たくしているつもりは……」
「そんな意図はないと?」
「ただ……どうしたらいいのか……」
「解らんか」
「O S I Gも違いますし」
「だったら、せめて、ことを荒立てない断り方を考えておいたらどうだ? 熱を上げてる人間に “帰れ” じゃ……さすがに引き下がれんだろう」
やっと、感情らしきものが宿る。少尉の顔に。
不服そうだ。
「さっきモレイラにも言われました」
「何を」
「振り方を考えろ、と」
「私も同意だ。モレイラに」
少尉の微笑が変化した。
自嘲だ。
「思いつきもしません。適切な振り方とか、断り方とか」
「しかし君。こういうことは何も初めてじゃないじゃないか」
コーデルの脳裏に浮かんだのは、2つの “事件” だった。
カルドーザ以前にも、あったのだ。
この青年が同性から迫られた事件が……それもかなり強引に。
ひとりは義理の兄、アーサー・ディケンズ大尉。
もうひとりは前職の上司、ヴェルヌイユ中佐。
特に後者の場合はハラスメント事案にまで発展し、軍内でちょっとした問題になった。
内部監査が乗り出し、中佐は停職になり、少尉はここへ転属となった。
コーデルは、“厄介な人材” を引き取った形になり、必然的にそれらの事件を知る羽目になった。つまり、まだ執着しているかもしれない男たちから少尉を守るためだ。
しかし……それらの事件は、あくまで軍内だけ。
―――軍の外で似たようなことがあったとしても、不思議ではないな……
コーデルの頭の隅にふとそんな思いが浮かんだ時、少尉の口元から皮肉めいた笑みが消えた。
「そう……ですね。確かに……そうかも」
「なぜ、多いと思う? そんなことが」
「解りません」
「自覚はあるだろうが、君は美しいからな」
「……」
「だが、それだけではないかも」
青年の目が、大きく見開かれる。
「それだけではない、とは?」
コーデルはそれには答えず、部下の顔をじっと見つめた。
―――言うか、言うまいか。
ガイドラインに照らし合わせるまでもなく、セクハラぎりぎりの話になってしまうだろう。
目の前の美貌を眺めるうちに、コーデルの腹は決まった。
「カガ。君のIDを、ここへ」
少尉は目を細めた。“なぜ?” というふうに。
しかし上官の指示である。結局は従うしかない。
少尉がIDを差し出すと、コーデルは自分のものも取り出し、テーブルの上に2枚を並べた。
コーデルの指先がIDの右下の隅を指す。
小さく色分けされた識別標だ。
コーデルのそれはブルー。少尉のはイエローだ。
「君はもちろん、この色の意味を知っているな?」
今、指はコーデルのIDの上にある。
「ヘテロセクシュアル、です」
「そうだ。なら、こっちは?」
指が少尉のIDに移る。
「ヘテロ、です」
「違う」
「え」
「正解は “ヘテロの可能性が高い”、だ」
「え? ええ……そ、そうですね……」
少尉の頬に、うっすらと赤みが射す。
声が小さくなる。
「つまり、君は “経験後の申請” というやつをしていないわけだ」
「そ……それは……」
口ごもる。
「しないのか? 申請を」
その質問に対する答えは小さな頷きだった。言葉ではなく。
「そうか……」
相手の様子にコーデルは躊躇いを覚えた。
虐めているような感覚に陥る。
しかしここから先を言わねば、訴えられるかもしれないというリスクまで冒してこの話を始めた意味がない。
「知っているか? 君がわざと申請をしない、という噂があるのを」
カガ少尉は、弾かれるように顔を上げた。
「え……」
「グリーンの識別標に変わるのが嫌で、わざと申請しないのだと」
「そ、そんな!」
「初耳か?」
「じゅ、准将殿は、この私が、軍規を守らぬ人間だと?」
真っ赤だ。まさに、燃えるよう。頬から耳まで。
―――恥ずかしさだけではあるまい。
おそらく、憤りもあるはず。
コーデルは溜め息をついた。
「君は……確か、飛び級で入隊したんだったな?」
「ええ」
「18歳の君が大人に混じって入隊した当時なら、そう不思議じゃない。ここに “未経験” を示す黄色があっても」
「……」
「だが、今、君はいくつだ?」
「……24です」
「その年齢でイエローやピンクの “未経験” 標をくっつけている人間はそうそういない。だから皆、勝手な想像をしたがる。特に君のその容姿ではな」
その美しい顔が、くしゃりと歪んだ。
「で、では、准将殿は、無理やり経験しろとおっしゃるのですか!」
その瞬間の、コーデルの驚き……
―――まさか!
まさか、本当に “未経験” だとは……!
「……そうは言ってない」
「では、どうせよと?」
コーデルは黙ってIDを少尉に戻した。
「いいか、カガ。これはハラスメントじゃないぞ。君のためを思って言うんだ。これ以上、男に迫られたくないだろう?」
ほんの僅かの、間。
「……は、はい……それは……」
「ああいう手合いを防ぐためだけじゃない。“可能性” のイエローを “確定” のブルーに変えたいのなら、なおのことだ」
「……」
「さしあたり、女性とデートぐらいはしろ」
少尉はぽかんと口を開けた。虚を突かれたように。
「女性と? デート……?」
「君は、男だけじゃなく女にも見向きもしない。だから奇妙な噂が立つんだ。カルドーザやヴェルヌイユのような連中は、君が女性とまったく交際しないのを知って、噂を信じ、自分にもチャンスがあるかもと思ってしまうんだ」
コーデルはカガ少尉の肩をぽんと叩いた。
からからとした笑い声が、辺りに転がる。
「悪いことは言わん。女とデートしてみろ。無理に寝ろとまでは言わん。色んな女と会話してみれば、そのうち君の気持ちを動かす女に巡り合うさ。いいものだぞ? 女は」