03
今日こそは、と意気込んで臨んだ放課後。
私は相も変わらずどなたにも出会えず、もちろんテオドール殿下にも会えないまま、トボトボと図書館へ逃げ込んだ。
迎えに来てくれたセシルが神父さまに呼び出されて行ってしまい、一人ではどこへも行けない私はやむなく殿下に会いに行くことを諦めたのである。
何か気分の明るくなるような本を読みましょう、と書架の合間を縫っていく。ふと人影が視界をよぎり立ち止まったのは、古典の並ぶ書架。
「あらあら、」
困り顔で背表紙をなぞり追う横顔は、ここではめったに見かけない方のものだった。
ロータス・ルーナさま。近衛騎士として殿下の護衛を務めている。黒い髪は短く刈り込んであり、日に焼けても赤くなるばかりで焦げないらしい白い肌によく映える。黒い眸は垂れ気味で、下がった眉と相まってなんだか庇護欲をくすぐられてしまう。長身なため、しなやかな筋肉の鎧が痩躯に見せてしまうことも要因なのでしょう。
思わずじっと見つめてしまった私の視線に気づいたロータスさまが慌てた様子で膝を折り、礼を示した。慌てて近づき立ってもらう。
「不躾に凝視してしまって、邪魔してしまいましたわ」
謝罪する私に、ロータスさまはやはり慌てた様子でおろおろする。
「ヴァイオレットさまに気づけなかったわたしがいけないのです。申し訳ありません」
「……本を探していたようですけれど、私でよろしければお手伝いしますわ」
謝罪は不要だと伝えたところで、余計な気を負わせてしまうので話題を逸らす。私の謝罪を受け取ってもらうこともできないでしょうから、言いっ放しだ。
「あ、ええと……お願いします」
躊躇したのは短い時間だった。
ドラゴンに関する記述のある本、というテオドール殿下のおつかいらしい。しかし、見つけたのはどれもおとぎ話や創作で困り果てていたということだった。
これだけの説明をする合間にも、同じだけ謝罪が差し込まれるところがロータスさまらしい。謙虚で腰が低い、いっそ卑屈と言ってもいい。
ロータスさまはとにかく自己評価が低い。伯爵家の三男坊が、魔法の適性もなく信仰心も薄いということで軍人になり、たまたまテオドール殿下の目に留まって近衛に引き抜かれ気づけば騎士になっていた。と、いうのがロータスさまの自己の評価だ。
殿下が惚れ込むほどの慧眼を持っている方なのだけれど、自身のこととなると途端に盲目になってしまうらしい。
「ドラゴンの種類や時代に関するご要望はありまして?」
「いいえ、そこまでは聞いておりません……申し訳ありません」
「あらあら、殿下ったら。それでは探しようがありませんわね」
書架を回って、数冊の本を見繕う。
「ヴァルツァー王国の歴史と関連のあるドラゴンの記述があるものと、様々な種類が載っているもの、あとは原初のドラゴンに限定したものです。とりあえずはこれらをお渡しして、殿下に条件を限定していただきましょう」
意識して口角を持ち上げて本を渡すと、ロータスさまがホッと深く息を吐いた。安堵から気が抜けたのか、いつになく柔和な笑みを浮かべている。いつから悩んでいたのかわからないけれど、相当に困り果てていたらしい。
「ヴァイオレットさま、ありがとうございます!」
「どういたしまして」
「すぐに殿下にお届けしなくてはなりませんので、失礼ですがわたしはこれ、で……ヴァイオレットさま?」
渡されたばかりの本を取り上げられ、笑顔のまま表情を凍りつかせたロータスさまに、私は笑みを返す。騙したようで申し訳ないけれど、私も必死なのだ。
「私も行きます」
「え、しかし……」
困る、とわかりやすく書いてある顔を無視して笑むことをやめない。それらしい口実を放って追い詰める。
「殿下のご要望によっては本を選び直すことになるでしょう。お手伝いしますわ」
絶好の機会。
殿下のところへ行くというロータスさまについて行けば、確実に殿下の元へたどり着ける。いつまでも曖昧なままにはしておかない。今後のことを、ソフィア嬢のことを、きちんと話さなければ。
「それとも、何か問題がありまして?」
わかりやすく動揺したロータスさまが視線を逸らした。嘘を吐くのが不得手な方だから言えないことは口を噤むようにしているのでしょうけれど、そんなにあからさまでは筒抜けだ。
「殿下は今どちらに?」
「……生徒会室に」
「おひとりで?」
「……」
おひとりではない。では、誰と?
「お相手は私に秘めるように、殿下のご命令かしら?」
「……」
あえて意地の悪い言葉を選んだ。結果は、沈黙こそ肯定。
さすがに少しは嘘を吐く練習をした方がよろしい。今度セシルを指導につけましょう。
適当に、ゼルさま、と一言お返事してしまえばよろしいのに。なんと不器用で、誠実な方でしょう。宮廷のような魔窟では、こういう方から真っ先に食い散らかされる。清涼な心は今後、荒波に揉まれる殿下の心を癒すでしょうが、それにしたって危なっかしい。
「ソフィア嬢」
ぽつり、と呟いた言葉に、ロータスさまの肩が大袈裟なほど跳ねた。
なるほど。また、彼女といるのね。それを秘めるということは、私に知られたくない何かがあるということ。
胸の奥底に、火が付くような感覚がした。
「いじめてしまいましたわね。どうぞ、殿下に届けて差し上げて」
本を返す。胸を撫で下ろしたロータスさまが受け取った本を確認している隙に、チョーカーを外す。ちりん、と鈴が小さく鳴った。構わず、重ねた本の上に乗せる。
「え……」
ロータスさまがみるみる青褪めた。
「一緒に渡してくださる? お忙しいようですから、伝言は結構ですわ」
冷や汗をかきながら、ロータスさまが必死に言葉を吐き出そうとおろおろする。
「あ、あの! ……殿下は決して……その、」
けれど、結局は大した言葉にならないまま途切れてしまった。その様子すら私の心に薪をくべる。
「私、少しだけ怒っていますの」
ですから、と続いた声は自分でも驚くほど冷えていた。
「聞く耳もちませんわ」
ごきげんよう、と最低限の挨拶だけして背を向ける。駆け足にならないよう、急く体を叱咤しながら図書館を出た。
ここから寮までの道なら迷わない。普段より歩調を速め、さっさと女子寮の門をくぐってしまう。
廊下でも階段でも、駆け出したい気持ちをぐっと抑えて歩く。
部屋の扉が見えて、はやる気持ちでほとんどぶつかるようにノブを掴んだ。乱暴だとわかっても加減ができず、部屋の中に飛び込んで扉を閉める。朝よりずっと大きな音がして、奥からアレキが飛び出してきた。
「ただいま、アレキ」
震える喉を叱咤して声を絞り出す。
「おかえりなさいませ、お嬢さま」
平常でない私をどう思ったのか、アレキの声が強張る。視線が一度だけ下がり、剣呑とした色を纏う。しかしすぐに改められ、柔らかい声がかけられた。
「まずは座って落ち着いてください。ミルクを温めて参ります」
お礼も言えず、手を引かれるままソファーに腰かける。
心臓が早鐘を打っている。
――どうしましょう。
返してしまった。殿下にいただいた鈴なのに。これでもう、殿下に見つけてもらえない。
あんなに燃えていた心は、冷や水を浴びせられたように冷え切っていた。
「お嬢さま、どうぞ」
差し出されたカップを受け取る。指先にじんわりと熱が伝わって、温かさで目元が緩んだ。視界がぼやける。
アレキが私の足元に跪き、カップを握る両手をそっと包んだ。眸は不安そうに揺れ、眉が下がっている。
「飼い猫はお終いにされるのですか?」
「……アレキ、もう少し遠回りしてちょうだい」
ずばり質問されて、濡れた眸も乾いてしまった。こんな時でも容赦がない。
「失礼いたしました。……殿下とは、お会いになれましたか?」
「……いいえ。癇癪を起して逃げてしまった」
話をしなければいけないことくらい、私だってちゃんと理解していたのに。怒っていいよ、というユーリ殿下の言葉に甘えてしまった。
「お嬢さまは十分に我慢なさいました。もう、よろしいのではありませんか?」
労わる声にも、私は素直に応じてあげられない。
「駄目よ」
私の怒りは、全て焼いてしまう。今、怒ってしまったらきっと、半焼では済まない。
「ですがもう、鈴はお返しになったのでしょう?」
「……」
そう、鈴はもうない。自分で返してしまった。今更、後悔したって遅い。
「そのような顔をなさらないでください。まったく、お嬢さま怒るとそればかりになってしまいますね」
アレキがエプロンのポケットから何かを取り出す。りん、と小さな音がした。
「お呪いです。殿下の鈴と、いつすり替えてやろうかと狙っていたのですが、……この好機を利用させていただきます」
右手を取られ、手首に何かを結ばれる。小さな鈴のついた編み紐だった。銀糸を基調に、赤い紐が編み込んである。
「しっかり結んでおきましたので、鋏で切りでもしない限りは解けません。わたしがしっかり念を込めておきましたから、呪いでも何でも叶えてみせます」
「……あらあら、まあまあ」
「殿下のことは、殿下のせいにしてしまいましょう。お嬢さまが殿下の元へたどり着く可能性など、有ってないようなものなのですから。迎えに来ない殿下が悪いのです」
それよりも、と。アレキは私が口を挟む隙を与えない。
「件の令嬢と決着をつける方を優先しましょう、お嬢さま」
ソフィア嬢。殿下が今、私よりも優先しているご令嬢。
私が嫌だと思っていること。私が怒っていること。
「殿下に怒ったのなら、件のご令嬢にも怒ってよろしいのです」
ようやくアレキの言葉が途切れ、私は辛うじて声を出す。
「今、彼女と会ったらきっと、石をぶつけてしまうわ」
「何の問題があるのです? いなくなってくれれば、お嬢さまの心が平和になります」
「まあまあ、アレキったら……」
なんて乱暴な考え方をするのでしょう。
「殿下はお嬢さまの獲物です。獲物を横取りしようとする子鼠は、さっさと噛み殺してしまいましょう」
声に沸々と怒りが混じっている。
アレキが私よりずっとはっきり怒るから、なんだか力が抜けてしまった。
「ありがとう、アレキ。私のために我慢してくれて」
きっともうずっと、アレキは怒っていたのでしょう。私が歯牙にもかけないから放置していただけで。アレキの中では初めから、ソフィア嬢は敵だった。
殺す。敵は殺す。骨の髄まで恐怖を刻み込んで。血の一滴まで後悔で濡らして。情の一欠片まで余さず殺し尽くす。
「けれどやはり、殺すのは駄目よ。まずは話をしてみるわ」
殿下と違って、こちらはいくらでも呼び出せる。今はまだ、私の方が立場は上だ。
「怒ってしまったものはしかたないものね。この機会に、面倒事を一掃してしまいましょう」
煩わしい噂の数々も、殿下の心変わりも。
口角を持ち上げる。
ぴくっ、とアレキの肩が跳ねた。その頬は熱を帯び赤く上気し、吊り上がった口端からは犬歯が覗いている。
胸の奥に灯った火が燃え上がったのがわかった。
――お兄さまに知られたら、きっと叱られてしまうわね。
◇
『ヴァイオレット!』
頭の中で、エリックお兄さまの怒号が反響する。もうバレてしまった、と落ち込んで、これは夢だと気づいた。私が怒りで短気を起こすといつも見る夢。
あれは私が五歳の頃。セシルが我が家に引き取られて間もない頃だった。
当時、エリックお兄さまはまだ邸にいて、しょっちゅう私に怒りを爆発させていた。
「ヴァイオレット! お前はまた!」
「お兄さま! 私、古代バメル語が読めるようになりましたの」
舌ったらずな私の報告に、お兄さまは怒りを一瞬だけ忘れて叫んだ。
「まだ五歳なのに!? お前はどれだけわたしを上回れば……じゃなかった。ヴァイオレット、お前また近所の子どもを池に落としたそうだな!?」
褒めてもらえなかったことに不満を抱きながらも、私は説明のため口を開く。
「だって、あの子達セシルに石を投げたんですもの」
セシルは叔父さまの子で、生まれ持った特殊な眸のせいで叔母さまに疎まれていた。兄弟からも虐げられていたそうだけれど、仕事で家を空けることの多い叔父さまでは事態を収められず、お父さまが我が家に迎え入れたのである。
しかし噂というのは足が速いもので、セシルはこちらでも近所の子ども達にいじめられていた。私が図書館に通い詰めていることもあって、セシルの遊び場もまた図書館だった。広く一般に公開している以上、意地悪な子ども達ともしょっちゅう顔を合わせることになる。子ども同士に爵位など通じない。大人もセシルの眸を恐れて近づかなかったこともあり、いじめは激化する一方だった。
「だからと言って、溺れ死んだらどうするつもりだったんだ!?」
「セシルをいじめる子がいなくなって、領内がちょっとだけ平和になります」
「お前のその考え方は誰に似たんだ? 俺は恐ろしくてしかたないぞ」
ベルシュタイン家の娘として蝶よ花よと育てられたはずの私は、少しばかり血が濃く受け継がれ過ぎたらしい。蝶より蜂に似た攻撃性を持ち、花というには毒々しい。他国と覇権を奪い合う戦乱の時代であればともかく、隣国と小競り合いを繰り返す程度にまで落ち着いた情勢の時代において、私はあまりに獰猛だった。
「聞いたぞ。岸に寄ろうとする子に石を投げていたそうじゃないか。溺死せずともあのままでは凍死していたかもしれない。お父さまが真っ青になってたぞ!」
インヴェルン辺境領は一年を通して気温が低い。短い夏の暑さが過ぎたこの頃、池の水は体温を奪うには十分な冷たさだった。
「あら、小石ですわ。それに当たらないように投げましたから、万が一にも池の水が赤くなることはありませんでした」
「俺が危惧しているのはそこじゃない! いや、そこも気になるがそうじゃない!」
「死を間近に感じれば、あの子達も真摯に反省するでしょう? 都合がよろしいではありませんか」
「もう怖いよお前! 発想が物騒にも限度があるぞ!」
お兄さまがどうして怒っているのか、当時の私は本当にわからなかったのだ。敵に情をかけるな、と教えたのはお父さまで、罪を繰り返す奴は反省していないから徹底的にやれ、と教えたのはお兄さまだ。
セシルを繰り返しいじめる子ども達は、親に叱られようが私に怒られようが反省など微塵もしていないのだから、徹底的にやるべき敵なのに、と。教え通りにやって叱られるなんて、と不満すら覚えていた。
「ヴァイオレット、死んでしまっては謝罪もさせられない」
「行動さえ改めてくれるのであれば、謝罪は不要ですわ」
「仲直りできなければセシルには友達もできないだろう」
「自分を殺そうとした相手と友達になるのですか?」
間を開けず反論する私と視線を合わせ、お兄さまが声を潜めた。とても言いにくそうに、ともすれば言いたくないと感じさせる痛々しい視線に、私は胸の奥に棘が刺さった気がした。
「……セシルが怖がってる」
息を呑む。
いじめられっ子の義弟。いつもうつむいて何かに怯えているのに、私のそばから離れようとはしない。
初めてできた弟だ。大事にしよう、守ってあげよう。そう思って今日まできた。お兄さまが私を愛してくれるように、私もセシルを愛そうと。
「ヴァイオレット、覚えなさい。お前の荊は今、守ろうとしているセシルにまで刺さろうとしている。誰かを守ろうとするのなら、剣ではなく盾にならなくてはいけない」
お兄さまの指が私の目元をそっと拭った。視界が滲んでいるのは私が泣いているからだと、この時ようやく気付いた。
「お前は短気で、一度、怒りに火がつくと誰にも止められない。わたし達の教育が悪かった」
まだ幼いからと、敵を無力化すること、無事に逃走することばかりを教わっていた。私は守られる立場のまだまだ弱者である、と。
「私はセシルに嫌われてしまいましたか?」
「好きだからこそ、怯えているんだろう。自分のためにお前が鬼神のようになってしまう、とね」
お兄さまが、私の読んでいた本を指差して溜め息をこぼす。
とある戦神に関するもので、彼はあらゆる戦場に勝利をもたらしてきた。かの戦神が用いた戦法を戦術を戦略を、私はセシルを守るためにひたすら勉強していた。
守る術は教わっていないから、私は自分で探した。セシルを守りたい。あるのはそればかりだった。
「……どうりでセシルがお前のそばを離れないわけだ」
優しい声が私の名を呼ぶ。
「セシルに心配されない戦い方を身につけなさい。あの子にお前の優しさだけがきちんと伝わるように。わたしとお父さまがきちんと教えてやる」
「はい、お兄さま」
「それから、かちんと来たらまずは深呼吸。燃え上がる前に、……そうだ、お母さまの真似をしなさい。『あらあら、まあまあ』だ。唱えて落ち着く癖をつけなさい」
あらあら、まあまあ。お母さまは非常にのんびりした性格だ。大抵のことはこの言葉で受け流してしまう。私はお母さまが怒ったところを見たことがない。
口の中で何度も呟く。
「怒ったから噛み殺した、なんて繰り返していたら、いつか本当に死人が出かねん。お前はわたしの可愛い妹なのだから、表立って自慢できないようなことだけはしてくれるなよ」
私の両肩に手を置いたお兄さまの言葉は切迫していて、私は気圧されるままに頷いたのだった。
目を開ける。
「……」
右手で音を立てる鈴を見る。
アレキったら、昔の私そっくりだわ。知らず知らずのうちにこぼれた溜め息は深くて、自分で自分に呆れてしまう。
「大丈夫、私は大丈夫」
ちゃんと教わった。
傷つけるばかりでない戦い方を。燃える炎で相手を焼き尽くさないやり方を。
深く息を吸う。
「よし、」
私は大丈夫。