04
窓の外に広げる景色は、相変わらず薄暗いままだ。雨も、雪も降らないのに、空ばかりがただ暗い。不安に包まれている学園内に漂う空気まで濃さを増すよう。
ドラゴンの件は、生徒会室の中で起こり私達の他に目撃者もなく事が済んだだけに、外には漏らさないとゼルさまが決めた。反対意見はでなかった。ただでさえ薄暗い世界は人々を混乱と不安の渦に叩き落したのだから、生徒たちにこれ以上の不安をばらまく真似は出来なかった。テオドールさまは体調不良、ということで発表した。
急ぎ、国王陛下に知らせだけは飛ばしたものの、国のことは心配しなくていいから学園内のことは任せる、と返事がきただけだった。陛下はユーリ殿下のことも信頼していらっしゃる。任せて問題ないと判断されたのでしょう。
ドラゴンの封印に関することについては、ベルシュタイン家の虎の子が二人もいるのだから大丈夫だろう、薔薇の信頼に応えてくれ、と実に軽い言葉で書いてあった。ドラゴンが相手では、虎なんて子猫みたいなものでしょうに。陛下の信頼は時に、身が竦むほど重い。
……息子が倒れたのだから、すぐにでも駆けつけたいでしょうに。文字が震えないように気をつけたのに、気を遣わせてしまうことになるなんて不甲斐ない。
王都もまた混乱の最中、任せるしかないというのが本音でしょう。人を派遣するにせよ、何か対策を講じるにせよすぐには無理だ、時間がかかる。
ユーリ殿下のお話では、私がテオドールさまやソフィアさんにつき添っている間に、神父さまを筆頭にセシルとあと数人を引き連れて地下へ行ったそうですけれど、ユイグは瘴気と共に例の影も充満させていたという。これには手を出せず、すぐに引き返したそうだ。
「はぁ……」
勝手にこぼれる溜め息はもうずっと深くて、一つ吐き出すたびに心がすり減るような気がする。
こんなところでじっとしているべきではない。頭の中で叱咤する声は、自身ではなくエリックお兄さまなのだから笑ってしまう。根が張ったように動けない小心者の私を、お兄さまは叱りに来てもくださらないと拗ねる気持ちがそうさせるのでしょうか。
お兄さまだって宮廷で踏ん張っているとわかっているのに、どうしても甘えてしまうわね。
穏やかに寝息を立てるテオドールさまの顔を見る。ユイグがばらまいた悪夢。凍えるようなあの恐怖を、テオドールさまは血に宿る圧倒的な魔力だけで弾いたという。影響を受けた面々とは異なり、悪夢に魘されることなく安らかな寝顔をしている。
けれどそれはあくまで、悪夢を見ないというだけのこと。悪夢に怯えることがない代わりに、テオドールさまは覚めない夢を見続けている。
巡る血の温もりを、毛布を上下させる呼吸を、確認しなければ不安で胸が裂けてしまう。死は隣人であったはずなのに、寄り添う相手が変わるだけでこんなにも恐ろしいだなんて思いもしなかった。付き添うことを許されているとはいえ、現状を打破しなくては何も変わらないとわかっているのに。そばを離れたわずかな隙を、考えるだけで忍び寄る恐怖に勝てずいつまでもここで燻っている。
牙をもがれた子猫のよう。
鳴る鈴の音さえ心をかき乱してしまうから、身動ぎすることすら慎重になる。そのくせ、チョーカーを外してしまうのはもっと怖くて。何かが千切れてしまう気がして。鈴を握ってうつむくばかり。
不意に、視界の端に映った灰に、ハッとして顔を上げる。
「よお、ヴァイオレット」
片方の口端だけを持ち上げた、悪戯っ子のような笑み。……落胆を、しそうになった己を恥じる。同じ色を持つ、それだけで重ねてしまうなんて。
「ノック、聞こえなかったみたいだな」
ユーリ殿下のことだって、大好きなのに。声が聞けない、名前を呼んでもらえない。その寂しさだけで、なんてはしたない。
「はは、何考えてるかバレバレだぜ。らしくない」
謝罪するのは恥の上塗りで、他に吐く言葉を思いつけない私は口を結ぶ。
「ンな顔すんなって。俺、別に傷ついたりしねえし」
「ユーリ殿下、」
「大丈夫。むしろ、間違えて抱き着いてこないかなって、邪心を抱えてきた」
頬にかかる髪を避けるため伸ばされた殿下の指がわずかに触れて、冷え切っていることに気づいた。
不安なのは私だけではない。そんな当たり前のことに、今になって思い至る。
「大丈夫、大丈夫だから」
安心させるような優しい声は、テオドールさまによく似ていた。
「ヴァイオレット、俺はこんな時のために要るんだから、安心して任せていい。大丈夫、理想的な王子さまなら間近で嫌というほど見てきたし、俺を立派な紳士にしてくれたのはヴァイオレットだろ」
第一王子は変わったのに、第二王子は相変わらず。そんな後ろ指はへし折ってやる、と他を寄せ付けぬ完璧さで人の目を釘付けにしたテオドールさま。余計なお世話だ、と完璧な王子さまの仮面を身に着けたユーリ殿下。
どちらが王太子でも、悪意を撥ね返し黙らせるだけの実力を身に着けた。そのうえでの、今。ユーリ殿下のやんちゃさは、テオドールさまへの信頼の証だ。そして、ユーリ殿下は己の代替品ではないと示し続けることが、テオドールさまのお返し。
そんな言葉を、言わせないために貫いた理想の王子であったはずなのに。私がそんなテオドールさまの想いを、知らないはずがないのに。
情けなくて、不甲斐なくて、涙が出た。
「ああ、泣くなよ。テオドールに怒られるのは俺だぞ」
「ご、めん……なさい……」
「悪かったよ。ちっとも頼ってくれないから、拗ねて意地悪しただけ」
殿下の大きな手が、私の涙を払っていく。
「今日ハンカチ忘れたから、泣き止んで。お願い」
潤んだ視界であっても、殿下が眉を限界まで下げていることがわかった。おねだりするために、少しだけ首を傾げていることも。
瞬きで大きな涙の粒を追い払って、自分のハンカチで残りを拭き取る。しつこくあふれる涙もあったけれど、なんとか黙らせることができた。
「泣かせたこと、テオドールには内緒な。絶対、怒るから。あいつは怒ると魔王よりおっかないんだ。うじうじ根に持つし」
「では、私の目端の赤が消えるまで、テオドールさまには眠っていていただかないといけませんわね」
「いいな、それ。ついでに、寝てる間に女物のドレス着せる悪戯を仕掛けようと思ってんだ。その準備の時間も追加しようぜ。化粧はヴァイオレットの担当な」
二ッと歯を見せて笑う殿下につられて、私も少しだけ口端を持ち上げる。
「私を共犯にするおつもりですね」
「ヴァイオレットがいれば怒りも鎮火するかなって」
「きっと、後で殿下だけ叱られます」
「ズルいぞ」
「婚約者の特権ですわ。テオドールさまに甘やかされるのは、私の特権」
ようやくきちんと持ち上がった口端を見て、殿下の表情も和らいだ。
「うん、そうだな」
嬉しそうな、どこか寂しそうな、ほんのわずかな諦念を含んだ、深い深い笑み。
緩慢な動きで伸ばされた両手が私の頬を挟み、顔を上向ける。冷え切っていた指先は今や、燃え上がるような熱を持っていた。
「羨ましいから、俺にもちょうだい」
こつん、とユーリ殿下の額が私のそれに触れる。
「……はは、困ったな。セシルの奴、何でヴァイオレットの義弟なんだろうな。俺だけの特別が思いつかない」
涙を堪える子どものような声が、降ってくる。
「特別ですわ。ユーリ殿下の義姉の席は、他のどなたにも譲りません」
何も考えず、言葉が滑り出た。
はは、と笑った揺れが額を通じて頭に響く。
「欲張りだな、ヴァイオレット」
「あら、ご存知ありませんでしたの?」
「うん。ヴァイオレットが教えてくれないと、俺は何も知らない」
「ユーリ殿下に知識をお裾分けするのは私の特権です。どんなことでも、教えて差し上げますわ」
だってユーリ殿下は、私の大切な義弟ですもの。
「……正式な義弟になるためにはまず、バカ兄貴を起こさねえとな」
深い声が、私の名を呼んだ。
薄く開いた口から出て行くはずの返事は、額に押し当てられた唇の感触に、思わず足を止めてしまった。
「これも内緒な。バレたら殺される」
囁くその声に、はい、という返事は吐息に紛れた。他に言うべき言葉を、私は持たない。
「よし、もう大丈夫。陛下にお任せいただいた以上の結果を示して、せいぜい褒めてもらおうじゃねえか」
優しく、強い声が名を呼ぶ。
「後顧の憂いは俺が断つ。ヴァイオレットは存分に、あのくそったれドラゴンの喉元に噛みついてやるといい」
一歩、下がった殿下の二対のアメジストが私を射抜く。その眸に宿るは王者の風格。
「虎の異名は伊達ではないと、思い知らせてやれ」
「お任せを。薔薇に誓って、必ずや」
立ち上がり礼を示す。
顔を上げるのと、殿下が扉を閉めるのは同時だった。深く、長く息を吐く。口の中で小さく、友人の名を呼ぶ。
『なあに、ヴァイオレット』
火の粉が舞う。
「私に、力を貸してくれる?」
『もちろん、ぼくの炎は君の炎だ。ぼくの劫火はいつだって君の味方だよ』
過去の愛に縛られて、恋した相手を想って未練をすり替えたドラゴン。哀れだと思う気持ちがないと言えば嘘になる。けれど未練にしがみついて、私の大切な人達を傷つけた。許してなんて、あげないわ。
『どれだけの悲嘆を抱えていようと、免罪符にはならないよ』
力強い声が、私の名を呼ぶ。
『ぼくは煙のない炎から生まれた精霊だ。あんなドラゴンの搾りかす、未練も残さず焼き尽くしてあげるよ』
大丈夫、と今度はうんと優しい声が言う。
『君の宝物は傷つけない約束だ。全てを守って、君を助ける』
「ありがとう、フィリート」
胸の奥で火花を散らす熱を飲み下すように、深く息を吸う。口端を持ち上げ笑みをつくり、ベッドのそばへ寄る。
「これで、ユーリ殿下のことを叱らないで差し上げてね」
触れたのは一瞬、きっと瞬きよりも短い時間。
幼少期に読んだたくさんのおとぎ話な中で、眠るお姫さまを起こすはいつだって、王子さまのキスだった。意地悪な魔法を解く、運命のキス。
睫毛を揺らすことすらしてくれないテオドールさまに、わざとらしくムッとする。
「目が覚めて、夢の中で私とキスした、なんておっしゃったら、噛みついてしまいますからね」
濡れた眸は笑んで誤魔化す。これ以上、フィリートの火を凍えさせないように。涙で劫火が、鈍らぬように。
深く息を吸って、長く細く吐き出す。胸の奥で燃える炎に薪をくべる。けれどまだ、今はまだ内に留めて吐き出さない。
「ソフィアさんのところへ行きましょう」
きっと今日も、目の下に隈を作っているに違いない。震えて、怯えて、倒れた婚約者に心を乱した彼女を慰めるばかりで、きちんと話もできていない。
ロータスさまは悪夢に魘される日々を過ごす中で、真っ先にソフィアさんを拒絶した。部屋へ見舞うことも、食事を運ぶことも、話をすることすら拒んで部屋に引きこもっている。
傷つけたくない、その一点張りで。混乱するソフィアさんは不安を募らせるばかりで、解消してあげることは誰にもできずにいる。部屋の中から聞こえてくる何かを破壊する音に怯える彼女は、それでも声をかけ続けるけれど、ロータスさまが受け入れたことは一度もない。
ロータスさまがどんな夢を見ているのか。垣間見ただけのフィリートでは詳細まではわからず、強い影響を受けているロータスさまの悪夢が今どうなっているのかなど知りようがない。部屋の前から離れたがらないソフィアさんを部屋へ連れ帰り、食事をさせて寝かしつけるだけが、私の精一杯だ。
「ドラゴンの火葬は、ソフィアさんと話をしてからね」
『乙女にはいい加減、この薄暗さをなんとかしてもらわないといけないしね』
「ええ、そうね」
一刻も早く、戻ってきてほしい。ソフィアさんには今、なにより彼女の存在が必要でしょう。それは多分、わたくしよりも。
『それから、彼女の騎士さまもね』
「そうね」
ロータスさまの悪夢も終わらせなければ。ソフィアさんでは部屋に踏み込むことすらできない。
対話のための道は、私が拓きましょう。
「フィリートは、光の精霊を呼びにはいけないの?」
『無理だよ。あいつはあれでも原初の精霊だ。ぼくじゃ行けない領域まで入り込めるし、女神のところってことなら、ぼくは近づけもしないよ』
「そう、困ったわね」
ソフィアさんの呼びかけも届かないようだし、どうしましょう。
ドラゴンの浄化を担う精霊。ユイグを抑えるために是非、手を貸してほしい。封印でも浄化でもなく、消滅させるために。
テオドールさまの部屋を出て、廊下を進む。道はフィリートが示してくれるので迷わない。角を曲がれば階段が……階段、が……。
「……何を、していますの?」
廊下の先、角を曲がってすぐ。ロータスさまの部屋の前で、ソフィアさんがどこから持ってきたのか斧を引きずって立っていた。重くて持ち上がらないのでしょう、踏ん張っているばかりで斧は床から浮く気配もない。
「ヴァイオレットさま……ぐす、」
散々、泣き明かして真っ赤になった目から、また涙があふれ出す。そんなに泣いたら枯れてしまうと、あんなに言って聞かせたのに。
「だ、だってもう、待っていられません」
泣きじゃくる彼女はまず、言い訳した。我慢できなかった自分を恥じるように。
「食事も、ずっと……とっていません。このままじゃ、ロータスさまが死んじゃう」
自分だって、ほとんど食べていないでしょうに。苛む不安が邪魔をして、食事が喉を通らなくて。弱っているのは自分だって同じであるはずなのに。
助けたい、その一心で。
あんなに泣いていたのに。今だって、こんなにも泣いているのに。一人では立てなかった私とは大違い。
フィリート、私を助けてね。
――もちろん、いつでも。
覚悟を決める。女は度胸よ、ヴァイオレット。腹を括りなさい。
大好きなお友達のためですもの。何の準備がなくたって、丸腰だって構わない。ソフィアさんの涙を止める助けになるのなら、鬼神と恐れられる騎士の剣だって、折ってみせましょう。
「ソフィアさん、斧を貸してちょうだい。それから、あなたは下がって涙を拭いて。婚約者とお話するのに泣いていたのでは、びっくりさせてしまいますわ」
ぎこちなくても構わない、と意識して口角を持ち上げる。
近づいて、力いっぱい握りしめている手から斧を抜き取って、しっかり握る。
「ヴァイオレットさま……?」
「できれば、目を閉じていてね」
さすがに斧を振り回す姿を見られるのは、ちょっと恥ずかしいもの。
足を肩幅に開き、踏ん張る。ぐん、と力を込めて、一閃。
「は……?」
扉の鍵が壊れるものすごい音に紛れて、ソフィアさんの間の抜けた声がぽつん、と聞こえた。……見ないでって、言ったのに。
『わぁ! ヴァイオレットって力持ちなんだね!』
無邪気なフィリートの声が、真っ赤な私の頬に薪をくべた。




