03
遠くですすり泣く声がする。
私とは違う癖のある銀の髪はまだ短く、大粒の涙を拭おうにも小さな手ではとても間に合っていない。
夢だ。これは夢だ。セシルはもう立派な男の子だもの。お友達だってたくさんいる。こんな風に、独りぼっちで泣いたりしない。
わかっているのに、きつく噛んだ舌はいつまでも千切れてくれない。
身動ぎした私に気づいたらしいセシルの、大きな二対の海が私を射抜いた。
「来ないで!」
それは明確な拒絶。
「嫌い、」
息を吸え、呼吸をやめるな。これは夢だ。
起きるのよ、ヴァイオレット。手のひらに爪を食いこませる。
「まるで鬼神みたい。怖い。――大嫌い!」
血液が沸騰したような錯覚がする。
おかげで血が巡った。深く息を吸う。
「長い年月を一人で過ごしていると、忘れてしまうのね」
自分一人だけが、己を構成するのではない。
鬼神にならないよう、導いてくれたお兄さまがいる。助けてくれたお父さまがいる。
飢えた虎を貫かぬよう、道を示してくれたお母さまがいる。
なによりも、いつまでも危なっかしい私を、それでもセシルは愛してくれる。大丈夫、私は大丈夫。
「私一人を貶めるのに、それでは足らない」
幾度も間違え、それでもそのたびに正してくれる人がいる。独りぼっちに慣れたくないと抗った私は、多くの人に愛してもらった。
死に損ないのドラゴンに踏み躙られるほど、私という存在は軽くもなければ安くもない。
幼少期のたった一度、怯えられるほどの獰猛さで牙を剥いた過ち一つで、私の足元を揺るがせるとでも思ったか。甚だ不愉快。
「私の受けた愛、全てを否定できないのなら、私の夢から出て行きなさい」
炎が灯る。
セシルだったものの輪郭がブレた。霧散した影に火の粉が混じり、やがて燃え上がる。
『おはよう、ぼくのヴァイオレット』
「遅いわ、フィリート」
『ヒーローの登場はいつだって、お姫様が危機に陥ってからなんだよ?』
「もう、……迎えに来てくれたから、許してあげるわ」
『ありがとう、ではまた現でね』
目を開ける。
「ヴァイオレットさま!」
ああ、また心配させてしまったわね。
◇
遠くですすり泣く声がする。耳の奥に残ったそれを振り払うように、軽く頭を振る。ちりん、ちりん、と鈴が鳴った。
テオドールさまとロータスさまの体は、私達の力では持ち上がらなくて、しかたないので床にそのまま寝かせている。頭の下にソファーのクッションを敷くのが精一杯だった。
ゼルさまのお帰りを待つ間、ユイグと名乗ったドラゴンの情報だけでもまとめてしまう。
『ねえ、ソフィア。ユイグの鱗は、北棟の地下に保管されてるんだ』
北棟の地下。
今は使われていない旧校舎は、学園ではなく併設された教会の管理である。地下への階段は隠されており、よほどの方向音痴……私のような者でもなければたどり着けないはずの場所。そこにたどり着けたということは、ユイグが呼んだ、と考えた方がよろしいかもしれない。
「わ、わたしあの時、ヴァイオレットさまに初めて会ったあの日……北棟で、ヴァイオレットさまに助けていただく前、地下に下りました」
用もないのに、どうしてか勝手に足が踏み出して階段を下りたという。
「じ、じゃあ……あの時の生温い風って……」
口元を押さえるソフィアさんは、怯えているというより不快感に耐えているよう。
『その時、乙女は一緒だった?』
「あの頃は、女神のところへ行っていたはずです」
『あいつと女神って、そんな頻繁に会いに行くような仲なの?』
「わ、わたしの予知夢について、女神に意見を求めに行ったようです」
『なるほどね』
思案するように、フィリートが空を漂う。
『ソフィア、その時、何か感じなかった? 脱力感とか、魔力の消費とか』
「い、いいえ。怖くなってすぐ逃げました」
フィリートは考え込んでしまったようで何も言わない。代わりに、口を開く。
「日記の話をしたでしょう。あれにもドラゴンのことはあまり記載がなかったのだけれど、地下で管理されていた鱗、あれは人間への贈り物だったらしいわ」
かつて、ドラゴン種の中には人間と交わる者もあった。私達、竜の血族はその末裔で、それ故に高い魔力を有している。
ユイグというドラゴンもまた、人間と混じった者達の一匹だった。子を生したかどうかはわからないけれど、確かに愛した人間がいたのである。鱗は、その女性への贈り物だったという。
それがどうして本体であるユイグが滅んだ後もこの世に残り、現在に至るまで未練がましく魔素や瘴気をかき集めているのか。かつての王家が学園を建ててまで、蓄えた魔力を散らし残留する魔力が枯渇するまで浄化を繰り返すほどの脅威となったのか。
神父さまもそこまではご存じないようで、この地の浄化は光の精霊と人間との約束だと代々継承されてきたという以外、詳細はわからない。
私の説明を聞き終えたソフィアさんの表情は険しい。
「わからない、って……でも、」
不満が漏れそうな口を、手で塞いで言葉を遮った。
ソフィアさんの気持ちもわかる。中途半端な継承の結果、私達の婚約者は昏睡しているのだから。けれど、不穏も不審もないまま延々と繰り返すばかりの浄化が、いつしかただの作業と成り果てたことを、今どうこう言ってもしかたない。
「風化させたことを責めるのは後回しにしましょう」
必要なのは、これ以上の回復をさせないこと。目的がどうやらソフィアさんであるらしい、ということしかわかっていない現状、彼にこれ以上の力をもたらし復活などされては堪らない。
ユイグの事情など、私達は知りもしないけれど、それすら風化させてしまったのかもしれないけれど。婚約者のいる女性に横恋慕して、挙句、婚約者に危害を加えるような殿方には退場願いましょう。
『ソフィア、適性のある魔法は何?』
不意に、フィリートが問う。
「え、治癒魔法です。でも、ちょっとした傷を治す程度で大したことは……」
『うぅん、それかもしれない』
フィリートはゆっくり、考えながら言葉を紡ぐ。
『多分、地下で君の魔力を吸収したんだ。治癒魔法に適性のあるソフィアの魔力なら、回復が早まるから』
「で、でもわたし魔力の消費なんて少しも感じませんでした」
『君は乙女の契約主だ。精霊は魔法行使も手伝うから、ユイグは乙女の力を掠め取ったんだよ。だからあんなに急な回復をしたんだ。折よく、その時は乙女もいなかったわけだし』
なるほど。
『その時、君と乙女の繋がりを知ったとすれば、君を狙ってくるのも納得だね。乙女はユイグの天敵だ。……まあ、あの言い方は敵というより、恋人にでも向けるような感じだったけどね』
恋人、の部分でソフィアさんが自分の肩を抱き締めた。
『迎えに来る、と言った以上また来る。それまでに何とかしよう。ぼく、あいつ嫌いだ』
私も同意見。ソフィアさんも、肯定するように首を縦に振った。
「やあ、お待たせ」
ノックはなかった。ゼルさまは退室された時と同じ、仮面のような笑みを浮かべて中へ歩みを進めた。
テオドールさま達を運び出す間、少しだけ話はお預けとなった。
◇
改めて、ソファーに座り直して再開する。
「さて、どんな感じかな?」
ゼルさまの指が肩に触れる。
精神干渉系の魔力を帯びている、と教えてもらったのはいつだったでしょう。ゼルさまが得意としているのは幻術と洗脳。それともう一つ、触れた相手に干渉し、記憶を読み取ること。
嫌われるからむやみに使わない方がよろしいわ、という私の意見にあっさり頷いて以来、使うところを見るのは初めてだ。……現状の切迫性を、嫌でも自覚する。
「へぇ、気持ち悪いね」
ゼルさまの意見は言葉の装飾がない分、直接的に感情を示す。
「狙いがソフィア嬢ということなら、ぼくが読み取った情報とも一致するね」
「あ、あの……クリストファーさまは何をなさっているんでしょうか?」
「魔法だよ。便利だよね」
「あ、はい……」
ソフィアさんもゼルさまとの会話に随分と慣れたようで、教えない、と正確に理解したらしい。
「光の精霊への恨みというより、ソフィア嬢への盲目的な愛で暴走って言う方が正しいかな。はっきりとは読み取れなかったけど、ご執心の奥方の姿とよく似ているよ、君」
本当に気持ち悪いね、とあっけらかんと肩を竦めたゼルさまに、ソフィアさんが瞠目する。私も、動揺を隠せない。
「ゼルさま、いつの間にユイグの記憶を読みましたの?」
「え? だって、ぼくはあいつの呪いを直接、受け取ったんだよ? 気持ち悪い思いをしたんだから、恥ずかしい記憶の三つくらい抜き取っても構わないだろう? ぼく、あいつに嫌われても平気だし」
なんて方でしょう。本当に、味方でよかったと心から痛感する。
あの悪夢を誰よりも先に打ち破っただけでなく、意趣返しの嫌がらせまでしていたなんて。
「恋は盲目って言うけど、こいつは地で行くタイプだね。惚れっぽいうえにしつこい。奥方への愛と未練を丸ごとソフィア嬢への想いとすり替えて、しかも永遠を添い遂げるためなら、世界には二人だけいればいいってさ」
ゼルさまの言葉は必要なことを必要なだけ教えてくださるけれど、気遣いは完全に置き去りだ。ソフィアさんの顔からはすっかり色が抜け落ちてしまっている。
「うん、殺してしまおう。迷惑だ」
「え……」
ソフィアさんが驚いたように声を漏らすも、ゼルさまは構わず言葉を続ける。
「理不尽な求愛でぼくらを滅ぼそうとしてる相手だ。こちらも、ぼくらの都合を押し付けるよ。ヴァイオレット嬢はどう思う?」
「異論はございません。けれど、陛下へのご報告と、ユーリ殿下への相談をしたうえで判断すべきですわ」
「ふむ、面倒だけどしかたないか。わかった」
ぱっ、と表情を晴らしたゼルさまがソフィアさんを見る。
「ソフィア嬢は反対する?」
なんて意地悪な問い方をするのでしょう。向ける視線は自然と咎めるような気配をした。
「わ、わたし……」
震えていた声が、徐々に芯を持つ。
「わたし、……あのドラゴンのこと、絶対に許す気ないので。ひたすら気持ち悪いし。反対しません! 大賛成です!」
バッドで殴ってやりたい、と付け加えられた小さな声を、残念ながら私の耳は拾ってしまった。ソフィアさんったら、意外と激しい性格なのね。驚いてしまった。
「あはは! 初めて君のことを面白いと思ったよ」
あらあら、ゼルさまが喜んでしまった。
「では、そういう方針で話を進めよう」
ゼルさまのおかげで、あっという間に話し合いが終わってしまった。
「ソフィアさん、ロータスさまのところへ行って差し上げて」
「え、でも……」
「フィリートをつけます。守ってくれるから、大丈夫よ」
お願い。
――ヴァイオレットは大丈夫?
ゼルさまはいてくださるわ。
――そういうことじゃないんだけど、いいよ。君は頑固だから。
ありがとう。
「こちらもすぐには動けないもの。一先ずは様子見ね。だから大丈夫」
「ありがとうございます!」
ゼルさまの刺すような視線を無視して、ソフィアさんを送り出す。扉がしまってすぐ、ゼルさまは私の向かいに腰を下ろした。
「一人で行かせたね」
「フィリートがついてますわ」
「餌としてはこれ以上ないけど、いいの?」
「ゼルさまったら、あの顔を見まして? 不安で真っ白になっていましたわ」
あのままでは身が保たない。すぐ動けないというのも本当だ。まずは一番の不安を少しでも和らげてあげないと。彼女は禍の中心にいるのだから、心労を積み過ぎては毒だ。
「あなたは、行かないの?」
「まずは陛下へ報せを。それからユーリ殿下とセシルに説明を。やるべきことを終えたら、すぐに行きますわ」
私はベルシュタイン。国王陛下より薔薇の花を下賜された家の娘だ。私情を優先させるにも限度はある。それに、私の婚約者はテオドールさまだ。不完全なドラゴンの呪いに負けるような方ではないと知っている。
「頑固だね」
「ご存じでしょう?」
ゼルさまは返事の代わりに、肩を竦めた。
「いいよ。陛下への手紙さえ書いてくれれば、あとはぼくが引き受けるから」
「でも、」
「頑張り屋さんな子へはご褒美をあげるものだろう? 殿下は寝てるから、ぼくが代わりにあげるよ、ヴァイオレット嬢」
ゼルさまの口角が、完璧な角度で持ち上がった。
「ぼくは正直者なんだ」
「存じております」
「自分の感情に忠実に生きると決めている」
「存じております」
目には見えない明確な基準に従い、生き方を迷わない。ちょっと人の心の機微に鈍感で、言葉に込められた本心を悟るのが難しい。けれど、とても優しい方。
「あはは、やっぱり、あなたが一番ぼくのことを知ってるね」
「光栄ですわ」
立ち上がったゼルさまが、私の髪を一束、手に取る。
「ぼくは恋も愛も永遠ではないと思うけど、ヴァイオレット嬢はどう思う?」
傾げそうになった首をまっすぐに保つ。私を見つめる琥珀の眸が、いつになく真剣な色をしていた。仮面ではない、心からの微笑は、少しだけ寂しそうで。抱っこをねだる幼子のようだと思った。
「同感ですわ。ですから、永遠にするために頑張りたいと思います」
くしゃ、と崩れた泣き笑いの表情が、困ってしまう、と物語る。
「あなたのそういうところ、ぼくは大嫌いなんだ」
でも、と動いたゼルさまの唇は先に、手にした私の髪へキスを降らせた。
「同じくらい好きだから困ってしまう」
「私もゼルさまのこと、大好きですわ」
「うん、嬉しいなあ」
顔を上げたゼルさまは、いつもの貼り付けた笑みで立っていた。
「じゃあ、手紙はよろしくね。ぼく、手紙を書くの苦手なんだ」
「お任せを」
「こちらのことは任せてくれていいよ。こき使われるのは慣れてるから」
「頼もしいですわ」
精一杯の笑みを浮かべて、退室するゼルさまの背を見送る。扉が閉まってすぐ、背後に立つ気配があった。
「お嬢さま、お部屋までお連れします」
朝、空を見上げた時から控えさせていたアレキが、静かにそばへ寄る。差し出された手をとって立ち上がりながら、顔から血の気が引くのがわかった。
「あの時、……」
ロータスさまの剣がユイグの体をすり抜けた時、控えさせていた護衛の影を制止した。私も、そしてテオドールさまも。刃物が通じない相手に対する準備がないと知っていたから。けれどあの時、もし止めなければ。
「死体が積み上がっていた可能性の方が高いですね」
きっぱりしたアレキの声が、口にしていない私の思考を察して返事を紡いだ。
「何か温かい飲み物をご用意いたします。文字が震えては、陛下も心配なさるでしょう。そうですね、ホットミルクにいたしましょう。いつもより甘くして差し上げます」
「……そんなに甘やかされたら、甘えてしまいたくなってしまうわ」
「どうぞ、ご存分に。ついでに、またわたしの鈴をつけてください。あのクソバカ王子、わたしの鈴を勝手に切り捨てて、許しません。せいぜい寝坊して、わたしとお嬢さまの時間を増やすとよろしいのです」
私の気を宥める以上の感情がこもった言葉に、せっかく浮上した感謝が萎んでしまった。……まったくこの子は、自分の感情に素直に生きるにも限度がある。
何と言うべきか悩みつつ、頭痛すら覚えながら部屋を出た。
まったく、震えの止まった指のお礼を言うべきか、王太子への暴言を叱るべきか。部屋に着くまでの時間を、そんなことを考えながら潰して、何とか沼に沈み込みそうだった心を引きずり上げた。
しっかりしなさい、ヴァイオレット。大丈夫、私は、大丈夫なはずでしょう。




