壱
清々しい朝日に照らされて、まず思ったのは、静かだな、ということだった。どうしてそう思うのか、答えは眠気で靄のかかる頭でもすぐわかった。普段であれば、アニーより先におはようと言葉を交わす相棒がいない。昨日の今日だ、すぐには帰って来ないだろう。わかっているつもりだけど、どうしても物足りなさがつき纏う。
う~ん……、俺ってこんな寂しがりだったかな。ウィーリアの寂しがりが俺にも伝染したか?
「おはようございます、お嬢さま」
「おはよう、アニー」
大丈夫、寂しくない。寂しがってるなんて知られたら、帰ってきた時にどれだけ笑われるかわかったもんじゃない。むしろ、あいつが寂しがってるところを笑うくらいの心構えでいようじゃないか。
「今日の髪型はどうなさいます?」
「ヴァイオレットさまとお揃いにして」
「お任せください。ヴァイオレットさまより可愛くして見せますからね」
「それはない」
「へ?」
何で、とアニーが困惑して表情を強張らせた。
「ヴァイオレットさまは世界一可愛いもの」
そこは譲れない。俺の目から見ても、ソフィアのフィルターを通して見ても、ヴァイオレットさまの可愛らしさとその美貌に敵う人なんていない。あの美しさは圧倒的だ。
「わ、わたしは、お嬢さまが世界一可愛いと思ってますよ?」
「ありがとう、アニー。じゃあ、今日もわたしを可愛くしてね」
「はい、お嬢さま……」
なぜかちょっぴり落ち込んで、アニーが櫛を手に取った。
青いリボンを編み込んでもらって、ばっちりヴァイオレットさまを意識している。スキップでもしちゃいそうな軽い足取りで寮を出る。
いい天気だなあ。
ふと、見上げた空に意図なんてない。ただなんとなく、何の気になしに見上げただけ。
――太陽が、揺れた気がした。
「……?」
気のせいかと思ったけど気になって、まじまじと空を睨みつけて、気づいた。揺れてる。これ絶対に揺れてる!
え、何で……?
そもそも太陽が揺れるって何?
混乱して視線を外せなくなった頃、それはきた。
「あ、……」
雲がかかったわけじゃない。太陽は空高く昇っている。さっきまでと何ら変わらない朝の空が、不意に、陰った。光が弱まった。
薄暗さが空を覆う。周囲の景色が影を増す。あっという間に広がった薄暗さは、さすがに登校中の他の生徒にも違和感を与えたようで、あっちこっちで混乱が芽を出す。
深く、深く息を吸う。顔からは血の気が引いている。足が震える。深く、深く息を吐き出して。
走った。
形振り構っていられない。貴族の娘が云々かんぬん、文句があるなら言ってみろ。今ここで走らないでいつ走る。そんな気分で、周囲の目も気にせず全力疾走した先は当然、生徒会室だ。
「申し訳ございませんっ!」
ノックも挨拶も省略して飛び込んだ生徒会室、案の定いた殿下を前に、俺は迷わず床にひれ伏した。これで三度目、土下座にも慣れたもんだ。
「ソフィア嬢、」
「うちのウィーリアが、本当に申し訳ございません!」
そう、俺にはわかったのだ。
光が息を潜めたあの瞬間、確かに感じた。あ、これウィーリアの仕業だ、と。
思ってもみなかった。女神がもたらす朝も、光の精霊がもたらす光も、ソフィアの人生では当たり前のこととして受け取っていたけど、俺としては当然、朝になりゃ太陽が昇るんだから明るいだろ、と。
舐めていたのだ。概念のようなものだろう、と。ウィーリアは確かに眩しいけど、世界規模の話は俺には壮大過ぎてついて行けない。それがあの瞬間、思い知った。ウィーリアは確かに世界を照らす光なのだ、と。その気になれば、世界から光を消し去ることができるのだ、と。
「ソフィア嬢、顔を上げてくれ」
女神のところで何があったのか知らないが、今のウィーリアは多分、相当に機嫌が悪いはずだ。でなきゃ世界が薄暗くなるはずがない。目立つの大好きだもん、あいつ。朝なんて、自分が主役の舞台だと思ってそうなもんだ。そんな眩しい時間に世界を照らさないなんて、絶対に何かあった。
「ウィーリアは女神のところへ行くと昨晩、どこかへ行きました。今は多分、女神を締め上げていると思います。わたしは詳細を知りません!」
「女神……締め上げ、っ……いいから顔を上げてくれヴァイオレットに怒られる!」
顔を上げる。
ヴァイオレットさまに怒られたくない。
「はぁ……それで? 女神のところへ行く、というのは本当か?」
「はい、締め上げてやるって息巻いて……」
殿下は頭痛でもするのか額を押さえて溜め息を吐き出した。
「人間の信仰に寄り添うという選択肢はないのか、君の精霊は……」
何を言ってんだ、こいつ。寄り添うわけないだろ、ウィーリアだぞ?
「ウィーリアですよ……?」
声に出ちゃった。
殿下の溜め息が深くなる。
「この現象は間違いなく光の精霊の仕業なんだな?」
「わたしはそう思います」
「わかった……。それで、この状態はどれくらい続きそうなんだ?」
「さあ?」
「は?」
「わかりません」
ウィーリアに呼びかけてはいるが、返事はない。こんなことは初めてだ。
「ウィーリアから返事はありませんし、いつ帰ってくるとも聞いていません」
「……え、じゃあ、光の精霊が戻るまでこのままなのか?」
「お、おそらくは」
そんなこと俺に聞かれても、俺もわっかんねえよ。本当、何やってんだあいつ。
「参ったな……」
「はい、そうですね」
床に座り込んだまま、どうしようかと頭を悩ませる。殿下は立ったまま、顎に手をやりうんうんと呻っている。
「何を、していますの?」
背後から聞こえてきたのは、ヴァイオレットさまお怒りの合図ともいえる言葉だった。声は凍えるような冷たさだ。殿下の表情が凍りつく。
見れば、ロータスさまとクリストファーさまは一緒だ。ロータスさまも、責めるように殿下を見る。
「ヴィ、待ってくれ。これは違う」
「何が違うのでしょう? 私には、ソフィアさんを跪かせているように見えますわ」
「彼女が勝手にやったんだ! 俺はやめろと言った!」
説明しろ、と言わんばかりに睨まれる。
……被害者ぶって涙の一つでも見せたら、ヴァイオレットさまは俺のことを抱きしめて慰めてくれるだろうか。邪な考えが浮かぶが、後が怖そうなのでやめようと打ち消す。
「ウィーリアのことで謝罪を、していました。またご迷惑をおかけしてしまって……」
殿下への勘違いは解いたけど、被害者面はやめられなかった。
慰めてほしいな、と思っちゃうほど心細いことなんてないはずなのに、やっぱりウィーリアがいなくて寂しいのかもしれない。
「ソフィアさ……ん、さあ立って」
ロータスさまに腕を引かれ、立ち上がる。
「そう怯えなくても、殿下はあなたの首を落としたりしませんよ」
「す、すみません」
土下座、やめよう。
心配していると訴える下がり眉に、胸が痛む。
「ヴィ、先に俺を信用してくれ。何かあるたびに疑うなんて、ひどいじゃないか」
こちらも眉が下がっている。
「テオドールさまったらいじめっ子なんですもの」
「ンうぅ……本を蹴っ飛ばした罪が消えない……」
「一生、向き合ってくださいませ」
本当、殿下はヴァイオレットさまに勝てないな。
「さ、そろそろ真面目な話をしようか」
ぱんぱん、と手を叩いたのはクリストファーさまだ。この人、黙るとまるで気配がしない。
「光の精霊が学園を留守にしていて、この薄暗い空は彼女の不機嫌が原因で、そのうえいつ戻るかわからないんだよね?」
「え、あ……はい」
あれ? そんな話をしてる時からいたの? じゃあもっと早い段階で入ってきてくれよ。誰だ、意地悪してロータスさまとヴァイオレットさまを引き留めたのは。はい、クリストファーさまですよね。俺が土下座してるの笑いながら見てたんですよね。
「ソフィアさん、どうにか連絡をとれないかしら」
「え、っと……何度も呼んでるんですけど、返事がなくて。ごめんなさい」
何だろう、なんかちょっと、空気が変じゃないか?
そんなに深刻な話じゃないだろ。いつまでも光がないってことなら困るけど、ウィーリアならすぐ帰ってくるだろうし。だって、ちょっと、って言ってたんだ。だからきっと、そう長くは離れてないと思う。
「あ、あの……何かあるんですか?」
誰も表情を変えない中、ロータスさまだけが視線を逸らした。
思ってはいけないことだけど、こういう時ロータスさまがいてくれる方が安心する。嘘が下手で、助かる。
「教えてください」
「ソフィア嬢、君はこんな噂を知ってるかな?」
口火を切ったのはクリストファーさまだ。いつもと変わらない笑みを浮かべているだけなのに、どうしてか今はそれがすごく怖い。
「王立アリスティア学園の地下にはドラゴンが眠っている」
……は?
ドラゴン、というまた新たな仮想生物の名称に思わず口が半開きになってしまった。神も精霊もいるんだ。ドラゴンだっていてもおかしくない。現に俺の前には少なくとも三人、そのドラゴンの血が流れる人間がいるんだ。竜の血族。おとぎ話だけの存在じゃない。
でも、学園の地下に本物がいるなんて冗談か何かだろう。
「ふむ、知らないのか。光の精霊からは何も聞いてない?」
「い、いいえ……ウィーリアが、何か関係あるんですか?」
何で知らないんだ、俺。何でいっつも、何にも知らないんだ、俺。
「ソフィアさん、あなたが光の精霊と契約したという話を聞いてから調べ始めたことなの。私達も、先日まではただの噂だと思っていたのよ」
ヴァイオレットさまのフォローも、あまり効果はない。みんながそうでも、俺はウィーリアがずっと一緒にいたんだ。黙ってることねえだろ。八つ当たりのような気持ちが浮かんで、どうしたって拭えない。
「殿下は知ってたけどね」
さらっと告げられたクリストファーさまの言葉に、反射的に殿下を睨む。
「俺だって詳細は知らん。なにせ大昔の話だ。みんなで王宮へ行った時、陛下にも聞いてみたが収穫はあまりなかった。ドラゴンの遺物が地下で保管され、その浄化と鎮魂は教会と光の精霊が担っている。知っているのはその程度だ」
「仮にも王太子なのに、噂と大差ない話しか知らされないなんて困ったものですね」
「王家が首を突っ込む必要もない案件だったんだ。茶化すな、ゼル」
それが今は、首を突っ込もうとしている。なぜ?
「ソフィアさん、神父さまがおっしゃっていたの。最近、地下から魔力が漏れることがあるそうよ」
「ま、待ってください。地下にあるのは遺物なんですよね? 生きてるわけでもないのに、どうしてそんなに警戒するような……生きてるんですか?」
ヴァイオレットさまは少しだけ言いにくそうに眉を顰め、けれど続けた。
「ドラゴンが悪食という特殊な能力があって、食べたものに宿る魔力を自分のものへ変換することができるの」
それは知ってる。精霊学の授業で教わった。
「地下にある遺物は、ドラゴンの鱗なのだけれど、生きてはいないわ」
けれど、と今度こそヴァイオレットさまは言葉に詰まった。
「そいつは鱗一枚で、大気中の魔素や瘴気を吸収してるんだよ」
クリストファーさまが引き継いだ。
魔素。魔法の素だ。酸素みたいなもの。瘴気は確か……世界の澱みとか穢れとか言われてる、とにかくよくないもの。それらを吸収してるって何だよ。鱗一枚でそんなことできるのか。
「途方もない話だけどね。ドラゴンはそうやって少しずつ力を蓄えて、復活しようとしてるのさ。そこで、この学園だ。ドラゴンが蓄えた魔力を、照明なんかの設備の運営に流用して分散させてる。竜の血族を集めることで、近くに同族がいると錯覚させて警戒心を引きずり出してより多くの魔力を消費させようって魂胆だよ」
とんでもない話だった。じゃあ、俺達みたいな子息令嬢の総仕上げはおまけかよ。
「じ、じゃあ……魔力が漏れてるって、」
動揺して声が震える俺に、殿下の厳しい声が突き刺さる。
「力が増しているということだ。ソフィア嬢、光の精霊は本当に何も言っていなかったか?」
何も、言ってなかった。
「神父さまのお話では、少し漏れてもすぐに浄化されていたそうで、きっと光の精霊が働きかけてくれていたんでしょうって」
気遣うようなヴァイオレットさまの言葉にも返事ができない。
神父さま、教会の神父さま……ウィーリアが言ってた狂信者だ。嫌っていたから姿を見せたり声を聞かせたりすることはないんだろう。
『約束したの。前に契約してた男と』
脳裏に光が走った。
『ここが好きだから、自分が死んだら祝福をお裾分けしてほしいって言われたの』
浄化の加護! ウィーリアが言ってた約束って、これのことか!
「あ、あの! ウィーリアが、昔、契約してた方と約束したって……多分、浄化のことだと思います!」
「契約……、ヴァイオレット嬢」
「はい、ゼルさま。日記を記したのはその方でしょう」
何の話?
「日記があるの。とある聖職者の日記で、光の精霊と過ごした日々が記述されていたわ」
ウィーリア!? 記録が残っちゃってますけどぉ!?
「あ、あのヴァイオレットさま、それ……」
どうか俺にも読ませてください。そしてできれば、ウィーリアがのたうち回るような記述は消してあげたいです。多分、死ぬほど恥ずかしいことしてるから、うちのウィーリア。俺の言ってる人と同一人物ならそれ、多分、ウィーリアの想い人さんです。
「もちろん、後でお見せするわ」
「ありがとうございます」
大変なことになった。ウィーリア、早く戻って来いマジで!
「日記のことは、今はいい。それよりソフィア嬢、ドラゴンは魔力を増している。神父さまにできることにも限度がある。早急に呼び戻さないと、最悪の事態もありえる」
「そ、そんな……最悪って、」
昼寝してたドラゴンが起きるってだけじゃ済まないのかよ。
「復活を妨げていた我々に牙を剥かない保証はない。特に、光の精霊。彼女は女神と親交が深い。ドラゴンは、神々とは戦争を繰り返すほど険悪だぞ」
ンもう! ウィーリアといい女神といい! もっとみんなと仲良くやれよ! 誰も彼もに嫌われやがって!
「しばらく君にはロータスをつける。警戒しろ」
「……はい、ありがとうございます」
「ロータス、何かあれば構わん。剣を抜け。傷つけさせるな」
「お任せを」
頼もしい声、きっと今、凛々しい表情をしてる。見たいと疼く気持ちより、ニヤニヤと絡みつくクリストファーさまの視線の方が痛い。
ウィーリアの奴、何でドラゴンのこと言わなかったんだろう。仕事してたなら、別に隠さなくたっていいじゃんか。それとも、惚れた男との約束を果たしてるって、俺に茶化されるのが照れ臭かったのかな。
それにしたって、命の危機に直面する可能性があるなら言ってほしかった。すげえ怖いじゃんか、ドラゴンとか! 勝てねえだろ絶対!
沈黙が横たわる。
学園の地下に眠るドラゴン。……ん? 地下?
頭の中で、チカッと何かを思い出すような痺れがあって、しかし思い出す前に何かに襲われた。波のように押し寄せた、目に見えない何か。次いで、生温い風が頬を撫でた。
今度は何だよもう! 次から次へと喧しいな!
『見つけた』
聞こえたのは、この場の誰とも違う声。……誰?
さすがに背筋が凍った。
ヴァイオレットさまが殿下を庇うように一歩、大きく前へ踏み出した。クリストファーさまも続く。
「ソフィアさん、下がって」
ロータスさまの声にハッとする。半ば引きずられるように後方へ下げられ、腰が抜けて動けないのだと気づいた。
みんな、殿下を守ろうとしてるのに。俺だってそうすべきなのに。情けなくて、泣けてくる。
『可哀想に、泣いているのかい? ソフィア』
耳元ぉっっ!?
囁く声が耳をくすぐって、怖気が背筋を駆け上がった。反射的に悲鳴が喉の奥から飛び出して、転がるようにみんなのそばへ寄る。抜けていた腰などあっさり回復した。
「何者だ!」
ロータスさまの切迫した声が空気を裂く。
返事をするように、空間が揺れた。
影がゆっくり伸びるように姿を現した人物は、ゆるく波打つ黒髪、褐色の肌、血を流し込んだような赤い双眸をしていた。細身で、浮世離れした気配を漂わせている。ていうか透けてる! 背後の家具とか透けて見えちゃってる! やだ何こいつ超怖い!
恐怖で全身に鳥肌が立って、――こめかみの辺りがピリッとした。脳裏を閃光が駆け巡る。
『隠しキャラもいるらしい』
脳裏に姉さんの声が反響する。何で今、どうして。そんな疑問は浮かぶ端から千切れた。
何で、今。当然だ。目の前で微笑んでいる半透明なこの男、この男こそ、乙女ゲーム『ジッタードールの箱庭』の隠しキャラ、ユイグだ。
ヤンデレには興味ない、とか言いながら熱心に攻略法を調べていた姉さんの背中が鮮明に思い出せる。
『悪役令嬢の好感度も上げられるらしいんだけど、挑戦する人いるのかしら』
ここにいるよ、姉さん。俺が挑戦した。仲良くなりたくて、結果として好感度を上げることに成功したらしい。
思い出した。延々と語られた姉さんのゲーム知識、その中の一つ。
悪役令嬢の好感度が一番高くなった時に発生する隠しルート。学園の地下に封印されてるドラゴンの復活にまつわるシナリオは、ハッピーエンドとバッドエンドで変更される要素が一つしかない。ヒロインが死ぬか、生き残るか。どちらの結末でも他の攻略キャラは悪役令嬢も含め、全員が死ぬ。
光の精霊による浄化の加護もこのシナリオで活躍するんだ。バッドエンドの分岐の方で、だけど。
そんな最低で最悪な破滅をもたらす元凶が今、俺の名を呼び微笑んでいる。
『おはよう、ソフィア。会いに来たよ』
お帰りください。




