捌
待ちに待ったお昼休み。
俺は叱られないギリギリの速度で廊下を小走りで駆け、図書館へ飛び込んだ。奥の小部屋ではやっぱり、ヴァイオレットさまが優雅にソファーに腰掛けていた。
ノックも挨拶も放置して声をかける。
「ヴァイオレットさま!」
さすがに驚いたのか、肩を跳ねさせたヴァイオレットさまの首元で、鈴が咎めるように乱暴な音を立てた。
「ヴァイオレットさま、」
「あらあ――」
「わたし、」
「ら、まあ――」
「恋をしました!」
「まあ、……まあまあ」
駆け寄り勢い余って手を握りしめた俺に目を白黒させていたヴァイオレットさまは、俺の言葉で落っこちそうなくらい目を丸くした。
「昨日はあんなことを言いましたけど、部屋でゆっくり考えたんです。ちゃんと、考えてみたんです。そしたらもう、この感情は恋の他にはないだろうと……どうしましょう、ヴァイオレットさま!」
興奮のせいで自然と声が大きくなる。寝ていないせいもあって、ハイになっているのかもしれない。
――落ち着きなさいよ。
落ち着いていられるか!
「わたし、昨日は眠れなくて! どうしましょう、もう……どうしましょう!」
語彙力がどんどん削り落ちていく。
「ソフィアさん、まずは落ち着いて。座ってお話しましょう。それにね、」
「わたし、恋だなんて思わなくて!」
言葉も興奮も止まらない俺の手を引いて、ヴァイオレットさまがソファーに座らせてくれた。
「心臓がうるさいくらい鳴って、顔からは火が出そうなんです! 考えているだけなのに!」
「お相手の方のこと?」
「そうなんです! 考えているだけで胸が痛いくらい高鳴って、わたし……どうしましょう!」
――どんだけ、どうしましょう、って言うのよ。脳みそバカになってんじゃない?
バカにもなるだろ恋してんだぞ!?
――認めた途端それ? 手の平どうなってんのよ、手首の骨どこに落としたの。拾ってきてあげようか? ……昨日までナメクジみたいだったくせに。
思い切りが良いんだよ俺は。本番に強いタイプなの!
――ついていけないわ。
「ソフィアさん、元気になってよかったわ」
「ありがとうございます、ヴァイオレットさま。昨日はわたし、混乱してしまってお恥ずかしいところを」
「い、いいのよ。誰だってびっくりすることはあるものね」
なんて良い人だろう。感動してしまう。
「そう、びっくりしたんです! ロータスさまったら、急にあんなこと言うんですもの」
「あ、ソフィアさん、」
「あなたの騎士です、なんて言われたら誰だって……心臓が飛び出るかと思いました」
思い出したらまた顔が熱くなってきた。
「下がり気味の眉が可愛らしい方だと思ってたのに、急に男の人なんだなって思い知らせるようなことを言われたら、びっくりしてもしかたないと思うんです」
俺とはまるで違う大きな手も、俺にはない力強さも、晴れた日の太陽にも負けない笑顔も、どれもこれも俺の胸中をぐちゃぐちゃにする。神の強制なんかじゃ到底、勝てっこない。燃え上がる炎のような感情に眩暈がする。
頬を押さえる俺の顔を見て、ヴァイオレットさまが何かを諦めたような溜め息を小さく吐き出した。どうしたんだろう。
「じゃあ、ソフィアさんが恋したというそのお相手は、」
「ロータスさまです」
はっきり言葉にして、改めて強くそう思う。
「ロータスさまのことが、大好きなんです」
――恥っずかしい奴。
言ってろ。……あとで正気に戻ったら、一緒に恥ずかしがってね。
――嫌よ。
「そ、ソフィアさん、あのね……」
言葉を濁したヴァイオレットさまが、手で部屋の奥を示した。動きに合わせて視線を向けた先――ロータスさまが、真っ赤になって顔を手で覆い隠していた。
「す、しゅみましぇん……」
泣きそうな声が、耳を通過する。
「え、いつから……?」
ヴァイオレットさまに視線を戻すと、初めて見るような渋い、苦々しい表情で目を逸らした。絞り出すような声で説明してくれる。
「伝えようと思っていたのよ、ずっと。最初から」
「最初から、」
最初から。
つまり俺が部屋に飛び込んだ時には、既にロータスさまはここにいたってことか。……つまりどういうことだ?
――あんたの発言はそのまま、騎士への告白になってたってことよ。
冷静な、というか呆れたウィーリアの声が耳に突き刺さる。
告白してた? 誰が? 誰に?
――あんたが、騎士に。
聞かれてたの? 今の発言、全部?
――聞かれてたわね、今の発言、全部。
すぅ、と深く息を吸う。深呼吸でもして、落ち着こう。
絹を裂くような悲鳴が図書館を震わせた。うるせえなあ。
――あんたよ、バカ。
俺だった。
◇
誰か殺して、俺のこと今すぐこの場で絞め殺して。自分じゃ怖くてできないから。そんで、落ち着いたら蘇生して。まだ死にたくない。
――落ち着きなさいって、だから言ったのに。
だってまさかいると思わなかったし。言えよ、ロータスさま目と鼻の先にいるよ、って。そしたらもうちょっと早く正気に戻ったよ。
どうしよう、死にたい……いや、死にたくはない。
――生への執着がうるさい。
いや、だって生きてたいし! 死ぬのは嫌じゃん!
……ロータスさま、まだいる?
――あんたと同じく、手で顔を隠したまま茹ってる。
逃げていい?
――忘れてない? 神がシナリオを進めてるのよ? 神の思う壺を避けるために、ゲームの基盤を引っくり返すべく告白しようって話だったでしょ?
そうでした。で、俺は予期せず告白を済ませてしまったんでした。
ヴァイオレットさまはどう?
――テーブルの上の物を全部どけて、二人分のお茶を用意してる。よかったじゃない。お茶請けはチョコレートケーキよ。
嬉しくない。今はまったく嬉しくない。食べても味とかわかんねえって絶対。
ヴァイオレットさま、早々に俺とロータスさまを二人きりにしようと動いてるじゃん。息ができない。二人きりになったら呼吸困難で死ぬ。
――わたしがいるでしょ。
出てきてくれんの!?
――は? 嫌よ。
もうやだこの精霊!
「ソフィアさん」
「はい!」
ヴァイオレットさまは、思いがけず真剣な表情をして立っていた。
「私はこれで失礼しますから、二人でゆっくりお話なさって」
「で、でも……」
「時間を空けるときっと良くないわ。今、しっかり結論を出してね」
今、の部分を言い聞かせるようにゆっくり発音した。逃げるな、とその目が語っている。
「ロータスさまも、早くお座りになって」
「ヴ、ヴァイオレットさま……」
「それでは、ごきげんよう」
お手本のようなカーテシーで礼をして、ヴァイオレットさまはさっさと背を向けて退室して行った。
――厳しいのね、あの女。
ウィーリアは助けてくれねえの?
――頑張れぇ。
こいつ、俺のことは助けるって言ってたくせに。まったくやる気がない。
――婚約で揉めたら、助けてあげる。恋は自分で咲かせなさい。
「そ、ソフィアさま……」
おっかなびっくり声をかけられて、俺はいよいよ顔を隠していられなくなる。恐る恐る、ロータスさまの方を向く。顔が熱い。まだ一言も話してないのに。告白してしまった、という事実だけで火が出そうだ。
「昨日は、その……っ、」
謝られる、と反射的に肩を震わせた俺を見て、ロータスさまが口を噤んだ。謝罪は、こない。
「ロータスさま、昨日はすみませんでした」
隙だと解釈し、俺から言う。
だってロータスさまは何も悪くない。謝られたら、俺の立場がない。
悪いのは俺だ。俺が、悪かった。気づかなくて、目を逸らして。自分の気持ちを、ソフィアに押し付けて。知らん顔したんだ。
「わたし、知らなかったんです。経験がなくて」
ずっと自分は男だからって言い訳してた。殿下達に感じてた違和感に、紛れ込ませて一緒だと思い込もうとしてた。
ソフィアも俺なら、この気持ちだって俺のものなのに。
男の人に恋をするなんて経験がなくて、知らないことに向き合うのが怖くて、びっくりしたんだ。
「もうずっと、ロータスさまは他の方とは違うってわかってたのに」
意味もなくざわついてたわけじゃない。そこには確かに、揺らいだ俺の感情があった。
優しい方だと知っている。笑顔を眩しいと思ったあの瞬間も、不意に一人称が乱れたあの時も、普段とのギャップで撃ち抜かれたんだ。砂糖菓子のような言葉を放られるたび心臓がうるさいくらい早鐘を打ったのは、浮かされるほどの熱に襲われたのは、俺の恋心が悲鳴をあげていたんだ。わかってた。知ってた。気づいてた。体だけじゃない。心だって、うんざりするほど訴えていた。お前はその男のことが好きなんだぞ、って。
わかってて、知ってて、気づいてて。それでもなお、意固地な俺は蓋をしようと必死だった。
「いけないことだって、自分で隠したんです」
ソフィアに普通の恋愛をさせてやれない俺が、普通の恋をするのはいけないことだって決めつけて。思い込んだ。
「い、いけないことなんですか?」
おずおずと、ロータスさまが言葉を紡ぐ。
「ソフィアさまにとって、俺への気持ちは、いけないことなんですか?」
「だ、だって……」
声は、泣きそうなほど沈んでかすれた。
始まりは俺の嘘だ。
予知夢。絶対に明かせない、大嘘を吐いた。今の俺の人間関係は全て、嘘が招いた結果なんだ。噓吐きは泥棒の始まり。現に俺は一度、ヴァイオレットさまの愛を奪いかけた。本来なら有り得なかった友情を育んで、手離す気もない。
生きていられるだけで満足すべきなのに。欲張りな俺はそれだけじゃ嫌だと、もう欲を出した。そのうえ、有り得なかった恋まで育もうなんて、恥知らずにも程がある。
――馬鹿ね。あんたは大馬鹿。ヴァイオレットの言葉、もう忘れたの?
『私にとって、必要なことだったのよ』
正しくなくても、間違えてない。本当に、そう思ってしまっていいんだろうか。それは自惚れじゃ、都合の良い解釈なんじゃないだろうか。
――あなたが罪だと思ってることを、被害者が無罪だと言ってるのよ。素直に受け入れなさいよ。本当、面倒くさいわね。線引きがなくなったら、器用さも失くしたの?
瞬きしたら、うっかり涙が出た。
だって、だって。口から出るのはそればっかりで、続きは何も浮かばなくなってしまった。
いつの間にか移動したロータスさまが跪き、俺の涙をハンカチで拭う。もう、やめろよそういうの。優しくすんなよ。口が滑ったらどうすんだよ。
「好きです。うぅ……好きになって、いいですか」
そら見ろ。口が滑った。
「俺で、いいんでしょうか……?」
あ?
涙が引っ込んだ。こいつ、今なんつった?
――急にガラ悪くなったわね。
いや、だって今の聞いたろ。こいつ、何だこいつふざけんな!
こちとら泣くほど精神ボロボロにして、一晩中、寝ずに考えてやっとの思いで認めた恋心だぞ。散々、ほんと何だよ……あんだけ煽っておきながら何で急に引くんだよ。ふざけてんのか?
――自己評価が低いって、最初から知ってたでしょ。そんなに怒ること?
怒るよ!
「何ですか、それ」
急にムッとした俺に戸惑ったのか、ロータスさまがおろおろと落ち着きを失くす。
「好きでいてはいけないんですか?」
「え、いやそんなことは――」
「じゃあ、今の言葉は何ですか? 俺で、って何ですか?」
さっきまでの悲愴がどこかへ消し飛ぶ。代わりに、じわじわと熱を増す。これは、怒りだ。怒った。俺もうすげえ怒ってる。ふざけんなよ、何様だこいつ。
「わたしが恋した男性を、そうやって卑下するのやめてください」
「え、……え?」
かっこいいよね、とか強いんだね、とかそういうのならいいよ。存分に謙遜しろよ。いやあそんなことは、自分はまだまだです、みたいに腰を低くして好感度でも何でも稼いでりゃいいよ。好きしろよ、止めねえから。
ただ、こっちはお前のこと好きだって、勇気を振り絞って告白してんだぞ。
世界中の誰よりお前のことが大好きで、一番だって言ってんだぞ。それを何だよ、『俺で、いいんでしょうか……?』だと?
「ロータスさまでなければ嫌だ、と申し上げたんです。なのに、」
あ、やべ。怒り過ぎてまた涙が出てきた。もう、この体! 本当すぐ泣く! 涙腺ガバガバじゃねえか。怒ってんだよ俺、泣きたいわけじゃねえの。
「ロータスさまがいいって言ってるのに、どうして一歩下がるんですか」
「お、俺……」
「お返事は、わたしのことが好きか、嫌いかのどちらかです。あなたでいいかどうかの問答なんて要らないんです。そんなことは私が昨日、寝ずに一晩、一生懸命考えました!」
軽はずみで言ったと思うなよ。こちとら、自我が男の女が男に告白してんだぞ。生半可な気持ちなわけがねえだろうが!
「わたしのことを突き落としたのはロータスさまです! 他の男性の可能性なんてないんです!」
「そ、ソフィアさま、」
「ロータスさまのことを好きだと思ったわたしの気持ちまで疑わないでください!」
「ソフィアさま!」
抱きしめられた。痛いくらい、力強く抱きしめられた。
「すみません、俺が悪かったです。反省するので、泣かないで」
ちくしょう、止まらねえ。反省したなら止めてみろや。
「ロータスさまのことが、好きなんです」
「はい、ありがとうございます。俺も、ソフィアさまのことが好きです」
根性なし。意気地なし。俺にばっか言わせんなバカァ。
言いたい文句は山ほど浮かんでくるのに、嗚咽が邪魔して一個も出て来ない。
「あの、泣き止んで……お願いします」
今やってる。
「うぅ、無理ぃ……」
涙の止め方って誰か検索して。わかったら教えて、今すぐ。これ自分じゃ無理。
「無理だから、反省してください。泣き止むまで時間がかかります。思い知ってください」
「思い知る……」
こいつ、何でここまで言われて反応がぼんやりしてんだよ。ムカつく。
「このわたしが好きになった男性なんです。世界で一番、素敵な方に決まってるんです。絶対、絶対に一番ですから」
「そ、ソフィアさまそれは――」
「反省してください。そんな素敵な方を悪く言うなんて駄目です。思い知ってください。どれだけ私が大好きだって思ってるか、ちゃんと考えてください。でないと泣き止んであげません」
「……はい、肝に銘じます」
――いいこと教えてあげようか?
何?
――あんたの騎士さま、あんたに負けないくらい真っ赤になって歯を食いしばってるわよ。ハート、射抜いちゃったんじゃない?
くっそぉ、いいこと聞いた。やめろよ、もうちょっと泣いて反省させたいんだから。にやけちゃうだろ。
――ほらほら、集中して。口端がヒクついてるわよ。
やめて、本当やめて。無理、にやける。
「ふ、ふふ……」
「ソフィアさま?」
「大好きです」
「はい、俺もです」
にやけちゃった。
この顔は見られたくないから、ロータスさまが体を離そうとしたら邪魔してくれる?
――は? 嫌よ。
この精霊、本当ムカつく。
でも今日はいいや。今は幸せで胸がいっぱいだから、許してやるよ。
――何よその言い方。ムカつく。
つん、とそっぽを向いたウィーリアを見ても、俺の口元は笑ったまま、隠しきれない幸福が口端を吊り上げっぱなしだった。




