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あらあら、まあまあ。  作者: かたつむり3号
第一章 Vの愛
2/37

01


 困ってしまった。

 空っぽになった教室を見回して、小さく溜め息を吐き出す。

 例えるなら、まるで波が引くようだった。セシルの言葉に従って、生徒会室までの案内を頼もうと近くにいた女子生徒に声をかけた途端、ひぃっ、と変わった音がした。背後から声をかけたから驚かせてしまったかしら、とのんびり構えているうちに、彼女は急用を思いついたことを声高に宣言して教室から出て行ってしまった。思いついてしまったのならしかたない、と諦め別の方にお願いしようと視線を動かすもどなたとも交錯せず、どころか教室にいた全員があっという間に退室した。


「はぁ……」


 ソフィア嬢の噂が校内を闊歩している現在、私の扱いは腫れ物とそう変わらない。我が家を慕う者は多けれど、王太子の婚約者というブランドにケチがついたとあっては必然みな距離を取る。

 ベルシュタイン家の直系という肩書きに頼るという私の目論見は、一度の試みであっさり砕け散った。やはり私は、一人で頑張るしかないらしい。


 アリスティア学園は学生による自治権が非常に強い。日頃の立ち振る舞い全てが卒業後の評価に影響を及ぼし、罪を犯せば罰せられる。ここは将来の宮廷、未来の後宮である。

 ソフィア嬢の名が広まれば広まるほど、我が家を軽んじる者の中で私の存在はより軽くなる。辺境育ちの野良猫に王太子妃など不相応である、と。そして、インヴェルン辺境領の重要性を理解している者もまた、王国の牙が不甲斐なし、と眉を顰める。

 まったく、ままならない。不器用な己が恨めしい。


「さて、と」


 教室を出る。生徒会室は、こっち。……と、私が確信しているので逆の方へ踏み出す。


『ヴァイオレット嬢の地図は図書館以外の記載がありませんから、こちらだと思った方向の逆を行かれるとよろしいでしょう』


 という助言をくださったのは、ゼルさまだったかしら。

 思い出す時にこめかみがピリッとしたので、間違いないでしょう。あの方は笑んだ表情が癖になっているのだけれど、かといって親しみやすいか、と問われれば答えは否だ。得体が知れない。

 殿下の側近候補として真っ先に名が挙がった方なのに、いまだに候補のままお話が進まないのはそういうところも原因の一つだ。


『寮から図書館までは行けるのに、どうしてその中間にある食堂へはたどり着けないのでしょうね』


 余計なことまで思い出してきた。

 どうしても食堂にたどり着けなくて、どこをどう歩いたのかも思い出せなくて困っていた時、声をかけてくれた際の言葉だ。

 ちょうど自分も食堂に行くところだから、という気遣いを素直に受け取ってしまった己の迂闊さが悔やまれる。

 彼は来た道をそのまま戻るという暴挙で渡したはずの気遣いを台無しにした挙句、デザートにフルーツタルトを勧めた理由が『美味しかったので』だったのにはさすがにムッとした。彼はそんな私を見ても、笑みを深めただけだった。


『あなたとご一緒すると興味深い出来事が向こうからやって来るので、非常に愉快ですよ。是非また同じ方向を目指して歩きましょう』


 意地悪だな、と思う。意地悪をする時ばかり、普段は砕いている口調を整えるのだから余計に。そんな風だから、殿下に『誰よりも頼りになるけれど、誰よりも遠くにいてほしい』なんて言われてしまうのだ。

 けれど不思議と、嫌ではない。仕事をサボりがちな私の表情が、ゼルさまの前では積極的に働こうとするせいでしょうか。あまり好ましい表情ではないので、結局は抑えてしまうのだけれど。

 つらつらと他愛もないことを考えながら進めていた歩みを止める。止まらざるを得ない。


 ――……困ってしまった。


 ここはどこでしょう。

 生徒会室は南棟の三階にあるはずなのに、どうしてか正面にある廊下の窓からは夕陽が差し込んでいる。太陽はいつから南へ沈むようになったのでしょう。気分屋さんだなんて知らなかった。困ってしまう。


 ゼルさまのことを考えながら迷子になったせいか、素直に認めるのがなんとなく嫌で太陽に八つ当たりしてみる。けれどそんなことをしていても、太陽がお詫びに生徒会室をここへ運んでくれるわけでなし。

 どうしたものかと考え込んでいると、前から見知った人物が歩いてきた。


「おやおや、ヴァイオレット嬢。今日はどちらへお出かけですか?」


 演技じみた大袈裟な仕草で両手を広げたのは、今まさに思考の隅を占領していたゼルさまである。

 私の姿を認めた途端、緩やかに持ち上がっていた口角を吊り上げた。

 彼の奔放さを表しているかのように外側へはねる金髪は、毛先に向かうほど色が薄くなっている。根元は黄金を溶かし込んだようであるのに、毛先は日に透けてしまいそうだ。眸は琥珀色で、こちらは見る角度によってその濃淡を変える。


「ごきげんよう、ゼルさま。テオドール殿下にお会いしたいと思いまして、探していましたの」


 カーテシーをとって時間を稼ぎ、それらしい言い訳を思いついた。


「殿下であれば生徒会室でしょう。放課後はいつもそちらにいらっしゃるのに、おやおや、忘れてしまうとは。ヴァイオレット嬢にも可愛らしい一面があるのですね」


 ……せっかく思いついたのに。


「あらあら、私ったら。うっかりしていましたわ」

「うん、意地っ張りなところも可愛らしい」


 悪足掻きすらいなされて、私は抵抗することをやめた。


「あの、よろしければ生徒会室へ連れて行っていただけませんか?」

「おやおや、今度は素直になってしまうとは。翻弄されてしまうな」


 翻弄されているのは私の方だと思うのだけれど。

 にっこり笑みを向けられ、思わず私も口角を持ち上げた。反して眉は下がってしまい、困惑を隠すことには失敗した。

 ゼルさまは気にした風でもなく、腰に巻いたベルトから垂らした編み紐を差し出された。受け取り、先端を握る。


『ぼくから遠のいてしまうあなたを繋ぎ留めておきたいけれど、手を繋ぐと殿下に怒られてしまうのですよ。困りましたねえ』


 と、やはり意地悪く言われたのは知り合って間もない頃だ。困る困ると繰り返しながら提案されたのが、この編み紐だ。銀糸を基調に群青色の紐を編み込んだもので、ヴィオ嬢、という名前をつけたという。やめてほしい。


「どうしたの?」


 握った編み紐をじっと見つめたまま動かない私を振り返って、ゼルさまが首を傾げた。


「名前、まだ付けていらっしゃるのですか?」

「名前? ぼくの名前は両親からもらったものをそのまま使っているから、自分で名付けたりはしていないよ」

「この編み紐ですわ」

「ああ、ヴィオ嬢ね。名前って一度こうと決めて付けたら、取り消したり付け直したりしないものだろう?」


 それはまあ、そうかもしれないけれど。編み紐に名前を付けるという発想が私にはないので、素直に頷けない。


「なぜ名前を付けようと思われたのですか?」

「失くさないためだよ」

「……呼んでも返事はしませんわ」


 ゼルさまがわずかに瞠目した。


「幼子のようなことを言うね。知らない一面だ。得をした」

「……左様でございますか」


 そっと息を吐き出す。

 ゼルさまとの会話は疲れてしまう。問いに対する返答一つひとつが想定を裏切ってくるので、そのたびに思考をぶつ切りにされるせいだ。

 会話が途切れると、ゼルさまは何も言わず歩き出した。置いて行かれないように私も歩く。


「ぼくはすぐに失くすんだ」


 不意に放られた言葉に、今度は私が首を傾げる。ちりん、と鈴が鳴った。


「名前を付けると愛着が湧くと言うだろう? そばにあるか確認するために名付けてるんだ」

「な、るほど……?」

「あとはそうだなあ、区別するためだ。あなたに鈴をつけた殿下と同じだよ。わかりやすくしてる」


 区別するため、とはどういう意味でしょう。他にも編み紐を複数お持ちなのかしら。私の鈴との関連性も今一つわからない。

 わかりやすく。それは発見までの過程を短縮するためか、あるいは紛失を避けるためか。やはりわからない。


「効果はありましたか?」


 真意を問おうかとも思ったけれど、何と返ってくるか想像できなかったのでやめた。代わりに当たり障りのないことを問う。

 ちらり、とゼルさまが何かを確かめるように視線を寄越した。


「う~ん、どうだろう」


 鼻歌混じりの声が耳に心地よかった。


「ヴァイオレット嬢はどう思う?」

「効果があると、ゼルさまは嬉しいですか?」

「うん」

「では、効果はあるということにしてしまいましょう」

「あはは、余計に嬉しいなぁ」


 わずかに弾んだ声はまるで歌っているようで、自然と口角が持ち上がった。


「そういえば、あなたに借りた本を読んだんだ」


 素敵な話題の予感に浮かれ、そわそわしてしまいます。少しだけ歩調を速め、不自然にならないようそっとゼルさまの隣に並ぶ。じぃっと注がれる視線がバレていることを示したが、知らん顔した。


「いかがでしたか?」

「興味深かったよ。やっぱり本に関してはあなたにお願いするのが近道だね」

「恐れ入ります」


 私がお貸ししたのは、精霊種の中でも特異とされる、光の精霊について記述された古い本だ。内容はとある聖職者の日記だった。日々のささやかな喜びや、庭先に姿を見せる子猫の様子などに混じって、悪戯好きな精霊との会話などが記されていた。光の精霊はどうやら彼の勤めていた教会に住んでいたようで、様子や交わした言葉などが詳細に記録されていた。古代バメル語で書かれているものの、ゼルさまであれば問題ないでしょうとそのままお貸しした。


 入学して間もない頃、図書館で発見したものだ。大判の年表が並ぶ書架の裏に、隠すように置いてあった。司書の方に渡したが蔵書ではなかったらしく、表紙をじっと見つめる私の視線もあってか、苦笑交じりに譲ってくれた。物欲しそうな態度をとるなんてはしたない、と今なら反省もするけれど、同じ状況になればきっと同じように表紙を凝視してしまうでしょう。


「段々と表現が雑になっていく様が愉快だったよ」

「慣れ、ということでしょうか」

「てっきり、狂信者の妄想日記だと思ったのに」

「精霊と言葉を交わせる人間は少ないですから。……ところで、真実に基づいた資料を、というゼルさまの条件に沿った本だと、お渡しする際に申し上げたはずですけれど」

「おや、ぼくはてっきり……ヴァイオレット嬢は純粋で愛らしいな、と思っていましたよ」


 吐息でざらついた気持ちを払う。

 光の精霊は、世界の始まりと時を同じくする原初の精霊に数えられる。世界に差した最初の光、それが光の精霊だ。

 精霊種はかつて、人間と共生していた時代もあったそうだけれど、現代ではその姿を認識することすら大抵の人間には叶わない。世界と人間の結びつきが弱まったせいとも、人間の信仰心が薄らいだせいとも、原因は解明されないまま仮説ばかりが増えていく。

 精霊とは世界の一部、世界そのもの。彼らの力はすなわち世界の力。古くから変わらない精霊の定義だ。光の精霊はその点で、他の精霊と異なる。彼女は、天上の神々と深く結びついているという。神聖属性魔法と呼ばれる、神への信仰心によって発動する魔法を行使する人々に寄り添い、清らかな心の持ち主の前には今なおその尊い姿を現す、といわれている。


「光の精霊といえば、学園の地下にはドラゴンが眠っているって昔から廃れず流れる例の噂、ヴァイオレット嬢はどう思う?」


 アリスティア学園は社交界デビューを控えた貴族令嬢、令息の総仕上げを行うためにあり、同時に竜の血族たる上位貴族の令嬢、令息が魔法の何たるかを学ぶ場でもある。これはあくまで表向きの理由であり、真実は地下に眠るドラゴンを清め鎮めるためにある、という噂は長く生徒達の間で囁かれてきた。何度、生徒が入れ替わっても寂れることのないこの噂には、併設された教会がドラゴンの浄化を担っている光の精霊を迎えるためにある、という尾ひれまで付き纏っている。

 教会に常駐する神父さまの祈りは、女神と精霊への感謝のためのものであるのだけれど、噂のせいでより深刻な雰囲気を醸し出しているという。


「語り継ぐ、とは違うかもしれませんけれど、長く残っているからには何かしらの意味があるのでしょう」

「真実だと思う?」

「私には判断できませんわ。けれど、想像して楽しむ程度に止めておく方がよろしいのでは?」

「何で? 不思議は暴きたいものでしょ?」

「好奇心は猫をも殺しますのよ」


 下手に刺激しなければ、神も人を祟らないのだ。噂程度で済んでいるものを掘り起こして、余計な禍を引きずり出すこともない。

 私の言葉で、顎に指を当てて悩んでいたゼルさまは、ややあってぱっと表情を晴らした。


「それもそうだね。じゃあ別の話をしよう。例の日記、教会で教わる光の精霊像とまるで違う描写が気になるんだ。ヴァイオレット嬢はどう思う?」

「理想とは総じて美しいものですわ」

「痛烈だね」


 この国が信仰する神は、正義を司る女神だ。世界に朝と夜をもたらすとされている彼女が眠りにつくと朝が訪れ、目覚めると夜が訪れる。光の精霊は、女神が眠っている時間、世界に光をもたらすのだという。


 女神もそうだけれど、光の精霊もまた美しい女性の姿で描かれることが多い。最も有名な絵は『光の乙女』という題がつけられ、教会の祭壇がある壁にかけてある。

 髪の長い女性がこちらへ淡く微笑んでいる麗しい立ち姿。その美貌は、実際に姿を目視できないことも拍車をかけるのだろう。教会で教わる彼女の姿は人の姿をしているにもかかわらず、人ならざる様相を呈している。


「いけませんわね。ベルシュタイン家は人間の手で国境を守護し、敵を退けてきた家系。土地柄もあって死は隣人のようなものですから、信仰心は薄いのですわ」


 信仰などない、とはさすがに口を噤んだ。

 冬になり、雪が降りだせば、インヴェルン辺境領は閉ざされた土地となる。分厚い暗灰色の雲に覆われた空からは降り注ぐ陽光も儚く、昼間でも夜のような薄暗さがある。女神がもたらすという朝も、光の精霊がもたらすという明るさも届かない。叶えられない祈りよりも温もりを求めた人々はいつしか、信仰よりも家族に温もりを分け与えることに時間を割くようになった。待っていても、薪をくべなければ暖炉から火が消える。

 長く忍耐の季節。人々は死にも似た冷たさが過ぎ去るのをただじっと耐えて過ごすのだ。女神や光の精霊に縋るより、スープを温める方が優先されるのは当然のことだった。


「あなたが火の魔法に高い適性を示すのも土地柄かな?」

「さあ? ですが、火と本は相性がよろしくありません」

「おやおや、贅沢だねぇ」


 着いたよ、と不意にゼルさまが立ち止まった。どうぞ、と促されるまま椅子に腰を落ち着けるも、気分はちっとも落ち着かない。

 生徒会室ではなかった。西棟から外に出た時から疑問を抱いてはいたものの、指摘したところで正しいルートがわからない。その内、目的の南棟へ向かうのだろうと黙ってついて行ったのだけれど、彼はそのまま外を移動して……食堂の中へ入った。

 きょろきょろと周囲に視線を走らせる私の様子が可笑しいのか、ゼルさまは機嫌よく向かいの席へ腰を下ろした。スタッフへお茶と一緒にケーキまで用意させてしまって、これではすぐに移動できない。


「あの……」


 用意されたのはチョコレートケーキだった。しっとりとした生地から顔を出す様々なナッツはどれも大きく、あえて形を残して混ぜ込まれているのだとわかる。サイズは小振りだけれど、食べ応えがありそうだ。


「何?」


 きょとん、として私の言葉を待つゼルさまは、本当に一つの疑問も抱いていないように見えた。


「生徒会室へ行くのではなかったのですね」

「そのつもりだったけど、ルートを逸れてもあなたが何も言わなかったから。せっかくだから、ぼくが行きたいところへ案内しようかと思ってね」

「……左様でございますか」


 その結果が食堂というのは、一体どういうことでしょう。婚約者のいる身で、他の殿方と二人きりでお茶するというのはよろしくないのだけれど。放課後とはいえ視界の開けた場所だ。談笑している生徒の姿も多い。……まあ、殿下がお許しになっているといえ、婚約者がいる身で他の殿方に道案内を頼む私も大概だ。

 気を落ち着けようとお茶を飲む。華やかな香りに、視線がまたケーキの方へ向く。


「おや、お茶の気分ではなかったかな?」

「いいえ。とても美味しいですわ」

「うん、あなたに飲ませてあげたかったんだ」


 わざとらしく下げられた眉尻はしかし、私の返事を聞いた途端すぐに上向いた。

 しばし逡巡して、しかし結局は質問してみることにした。


「そういえば、ソフィア嬢と仲がよろしいと聞きましたわ」

「仲良くないよ?」


 にべもない言葉にきょとんとしてしまう。


「公爵家の人間に話しかけるなんてマナーを知らない可哀想な子なんだな、と思って観察してただけだよ」


 趣味が悪い、という言葉は呑み込んだ。


「節操なく色んな男に声をかけてるって噂も教えてあげたよ。自覚はあるみたいで真っ青になってたんだけど、指摘されて怯えるようなことをどうしてするのか質問しても教えてくれなかったんだ」

「ゼルさまったら……」


 ソフィア嬢も気も毒に。声をかけた相手が悪過ぎる。

 朗らかな笑顔と巧みな話術に惑わされ、これまで幾人ものご令嬢が泣かされてきた。人の気持ちがわからないんだ、と本気で悩んでいる方なのだ。とはいえ、わかった時も自覚はあまりなく、嬉々として揶揄ってしまうのだから困ってしまう。


「おや? 仲良くしていた方がよかったかな?」

「いいえ、ゼルさまのお気持ちが大切ですわ」

「珍しいね。あなたがぼくの交友関係を知りたがるなんて」

「……他意はございません」

「ぼくはあなたと仲良しだよ?」

「それは、とても嬉しいお話ですわ」

「うん、ぼくも嬉しいよ」


 返答に対する返しがないまま話題が移るので、とても忙しない。けれどびっくり箱みたいで楽しい、と思う私も確かにいる。疲れてしまうけれど、それもまた一興だ。

 近くの席で談笑していた令嬢達が、こちらを見ながら何かを囁き合う。言葉が聞き取れなくとも、内容には察しがつく。素知らぬ顔で、ケーキの一角をフォークで切り崩す。


「……レディとして、不適切ですわね」


 溜め息のようにこぼれた言葉だったけれど、ゼルさまの耳は拾ったのだろう。組んだ指に顎を乗せてにこにこしている。


「美味しいお茶に喜びを感じるのは、人間として適切な反応だよ?」

「婚約者以外の殿方と二人きりでお茶している現状のことですわ」

「えっ!」


 驚愕の声は思いがけず大きくて、びっくりして肩が跳ねた。


「ぼくら以外にも大勢いるじゃないか。もしかして気づいていないのかい?」


 ぐるり、と腕を振り、食堂で過ごす生徒達を示すゼルさまの表情は、本気で驚いている人のそれだ。


「……気づいていますわ」

「じゃあ、どうして二人きりだと思ったの?」

「このテーブルには私達だけですもの」

「そんな限定的な条件を言われても困るよ。ヴァイオレット嬢は意地悪だなぁ」


 ゼルさまは本当に困っているように見えた。


「ぼくとあなたが二人きりになれるのなんて、ベッドの中くらいのものだよ」

「はい?」


 それこそ限定的な条件だ。

 突拍子のない単語を消化できず、ぎこちない声が出た。瞬きが増える。


「醜聞は蜜の味がするけれど、蜜の成分なんて誰も興味ないだろう?」


 だから、とゼルさまは澱みなく言葉を紡いでいく。


「ぼくがあなたと二人きりになろうと思うなら、食堂ではなく寝室へ連れて行くしかない。でも今のぼくの寝室は男子寮になるから、あなたと二人きり、という条件を満たすことは不可能だよ。寮は個室だけど、扉一枚向こうでは、ぼくを監視する従者が控えてる」


 いつの間にか、ゼルさまは困り顔をやめていた。持ち上げた口角と弧を描く双眸が、まるで獲物を狩る狐のように腹の底を冷やす。しかし私は、これが私へ向けられているものではないと理解していた。狡猾な笑みとはこうやるんだよ、と。いつか戯れにやって見せてくださったことがある。これはその時に見せてもらった、他者を脅かす悪戯だ。


「今、ぼくとあなたが二人きりだなんて思うせっかちな人間は誰もいないから、安心してケーキを楽しむといい。早とちりで王太子の側近候補と王太子の婚約者を脅かす戯言を吐いたなんて、誰も思われたくないだろう?」


 わざと、首を傾げて。私の背後にいる人間に表情を見せた。小さく息を呑む音がしたきり、食堂内はすっかり静寂に包まれてしまった。


「ゼルさま、お茶が冷めてしまいますわ」


 意識して明るい声を出せば、ゼルさまも笑みをいつものそれへとすり替える。

 意地悪だな、と思う。大袈裟な恐怖で抑えつけなくても、穏便なやり方はいくらでもあったでしょうに。ゼルさまは気遣いが下手なのだ。

 切り分けたケーキを口に含む。小さく切ったはずなのに、ごろごろ入っているナッツのせいで口の中が圧迫される。


「ヴァイオレット嬢、そのケーキはぼくのおすすめなんだ。美味しい?」


 ゴリゴリ、と噛んだナッツが音を立てた。それがまるで返事の代わりのように鳴ってしまって、思わず頬に熱が集まった。

 ぷふっ、とゼルさまが堪え損ねて吹き出したことで、ますます顔が熱くなる。


「ふ、ふふ……ごめんごめん。間が悪かったね」


 意地悪だわ。

 文句の一つでも言ってしまいたいのに、ナッツを噛み砕くのに時間がかかる。


「そんなに一生懸命にならなくても、ゆっくりお食べよ」


 違う、美味しさのあまり夢中で咀嚼しているわけじゃない。言いたいのに、飲み込むにはまだナッツの欠片が大きい。


 ふと、食堂の入り口でどなたかが大きな声を出した。

 急いで嚥下したせいで喉が圧迫され、慌ててお茶を飲んでいるうちに、パタパタと足音がすぐそばへ迫った。


「義姉さん!」


 強く肩を掴まれた。あと少し早ければ、ティーカップを引っくり返すところだった。


「大丈夫?」

「ええ、ちょうど飲み終わったところで――」

「そうじゃなくて! ……いつからここにいたの?」


 眉尻を下げたセシルが不安げな表情のまま私の隣に腰を下ろした。ゼルさまへの挨拶もなしで、と向かいへ視線を向けると、どうぞ、と手のひらで制された。


「そう時間は経っていないと思うけれど」

「生徒会室へは? 行ったの?」

「いいえ。行こうとしたのだけれど、……ゼルさまからお茶のお誘いをいただいたので」


 わかりやすく安堵の表情を見せたセシルに、違和感を覚える。


「セシル、何かあったの?」

「っ……、いや、生徒会室へ行くと言っていたのに、食堂にいるから驚いて」


 青い双眸が私を避けるように泳いだ。時折、何かを探るようにゼルさまの方を見る。

 嘘を吐くのは得意な子なのに、どうしてか私の前では些細な誤魔化しさえままならない。

 何があったのでしょう。

 いつから食堂にいたのか気にしていた。生徒会室へ行っていない、と聞いた途端に見せた安堵の意味。

 ――ああ、そうか。

 生徒会室には殿下が、そしてもう一人、彼女がいるのだ。知って、探してくれた。私が傷つく前に見つけようと。優しい、優しい私の義弟。そして多分、優しいのはセシルだけではない。


「大丈夫よ、セシル。私は、()()()()()()()


 あはっ、と弾けた笑声はゼルさまのものだった。セシルが真っ青になって顔を手で覆い隠した。


「あらあら、セシルったら……」

「優秀な姉を持つと弟は苦労するというけれど、本当なんだね」


 からからと笑うゼルさまの言葉に、セシルはぐったり肩を落ち込ませた。その反応に、多分、が確信へ変わる。


「会話は意思疎通の初歩なのでしょう?」

「はい、義姉さん……」


 嘘が得意、という共通項があるせいか、セシルはゼルさまを警戒しがちだ。苦手と言ってもいい。嘘を見抜こうと躍起になるあまり、真実まで見落としたのでしょう。


「ゼルさま、義弟が大変な失礼をいたしました。申し訳ございません」

「うん? ぼくは面白かったから構わないよ」


 首を傾げてけろっとしているゼルさまにお礼を重ねる。


「それから、その……」


 こちらは少し言い出しにくい。幾度となく仕掛けられた悪戯に惑わされ、私もまた見落としていた。


「私のことを見つけてくださって、ありがとうございました。とても楽しい時間でしたわ」


 生徒会室を目指していた私を、生徒会室から遠ざけよう、と。知らず守られることはくすぐったくて、いつまでも慣れない。

 時折こうして不意に優しくなさるから、私はいつまでもこの方の意地悪に振り回されることから逃げられない。


「う~ん、今日は得ばっかりだなあ」


 青かったり赤かったりと鮮やかな私達姉弟の向かいで、ゼルさまは珍しく、無垢な幼子のように笑んでいた。

  

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