01
どうしましょう、困ってしまった。
約束した通り、ユーリ殿下と二人で入った王宮庭園の薔薇の迷路。初めは順調だった。並んでゆっくり歩きながら、美しい薔薇の姿に目を細め、豊かな香りに心を弾ませ、私の言葉はユーリ殿下の知識欲を満たした。
「良かったな、ヴァイオレット。テオドールと仲直りできて」
「ご心配をおかけいたしました」
「ヴァイオレットが笑顔でいられるなら、それでいいよ。例のご令嬢……ソフィアだっけ? あいつとも友達になったんだろ?」
「はい」
実は、初めてに近い同性のお友達に、はしゃぐ気持ちを抑えることが難しく苦労している。私は本の虫で、人より本との距離の方が近い。辺境の侯爵家の娘ということも、テオドールさまの婚約者という立場も相まって、これまでなかなかお友達ができなかった。
「それにしてもテオドールの奴、すっかり昔に戻ったな」
「殿下はご存じでしたのね」
やんちゃで乱暴者の王子さま。テオドールさまが内緒にしておきたかった、幼少期の姿。忘れていたのは私ばかり。
「言ったら口を縫い付けてやるって脅されたんだよ。あの頃はまだ体が小さくて、喧嘩じゃ勝てなかったからしかたなくな」
「あらあら、まあまあ」
「どうせ無理だと思ったのに、あいつ宣言通り完璧王子になっちゃって」
そう言う殿下は拗ねたように口を尖らせてしまった。
「あいつが理想的な王子さまを演じるようになったせいで、俺のやんちゃが目立つようになってさ。損ばっかりだった」
テオドールに負けたくない、と泣いた殿下は、努力の末、テオドールさまより短い年月で理想的な王子さまの所作を身に着けてみせた。
「殿下も素敵な王子さまですわ」
「ヴァイオレット先生の教えが良かったからな」
「光栄です」
殿下の視線が、私の顔より下に向けられた。首を傾げた拍子に、チョーカーの鈴がちりん、と音を立てた。
「ユーリ殿下?」
「何でもない。ヴァイオレット、次はあっち行こうぜ」
そんな会話を続けながら歩いていた時間が遠くに感じる。
『ヴァイオレット、のんびりしてる場合じゃないと思うよ』
「そうね、どうしましょう」
フィリートの言葉にもやはりのんびり返しながら頬に手をやる。困ってしまった。
ほんの一瞬の出来事だった。ほんのちょっと、ほんのちょっとの時間、殿下から視線を逸らして、次の瞬間にはもう殿下の姿はどこにもなかった。手を繋いでいなかったことが、今更ながら悔やまれる。
『ヴァイオレットったら、焦って動いちゃうんだもん』
「だって……」
ついさっき曲がったばかりの角を一回、戻ってみただけのつもりだったのに。振り返ったらもう知らない道だった。いえ、そんなことはないのでしょうけれど、私には見分けがつかなくなっていた。
『乙女は何をやってるんだよ。ここで点数を稼がないで、どこでテオドールの点数を稼ぐんだよ』
「フィリートったら……」
そう、迷ったと理解してすぐ、私はフィリートにゴールまでの道案内を頼んだ。けれどフィリートは、光の精霊が来るだろう、と言って私のそばを離れない。
『ヴァイオレット、本当にあんな男でいいの? ぼくは心配だよ』
その話をするために、ここに残っているのでしょうか。
「テオドールさまがいいわ。テオドールさまでなければ、嫌だわ」
『他に良い男なんていくらでもいるだろうに。もっとわかりやすく、君を愛してくれる男がいるよ。君のため、を言い訳に君を放置しないような男がさ』
それがどなたを指すのか、私にはわからない。けれど、それでも。
「愛したのは、そこではないもの」
私のためなら、迷わず自身を差し出せるテオドールさま。最初から、テオドールさまは私を優先した。
己を男としてではなく、図書館として利用してくれていい、と。そんな差し出し方、女の子はちっとも嬉しいと思わないのに。不器用で、一生懸命。私の一番を理解し、それを奪わずそばにいられる方法を模索してくれる。優しい、優しい方。
そんなことをされてしまったら、どうしようもないじゃない。私の一番はあなたですよ、とどうしたって思って欲しくなってしまう。私の一番は、あなたがいるからより素敵なものになる、と知って欲しくて堪らない。
『やれやれ……負けず嫌いだね、ヴァイオレット』
「あらあら、乙女心よ、フィリート」
『ふむ、乙女心じゃしかたないな。でも君を傷つけるようなバカをやったら、ぼくは容赦なくあいつを焼くからね』
あらあら、フィリートったら。
言おうとした言葉は、葉の揺れる音と足早に迫る靴音が奪った。
「ヴァイオレット!」
角を曲がって飛び込んできたテオドールさまは、私の姿を認めるなりきつく腕の中に閉じ込めた。
「あ、あらあら……」
あっという間に顔が熱くなる。何度、重ねても慣れる気配はない。
「心配した」
「申し訳ありません」
「怪我はないか」
「はい」
「じっとしていてくれたのは賢明だが、せめて鈴を鳴らしてくれ」
「申し訳ありません」
殿下の背後から、光の精霊が顔を覗かせた。
『遅いよ、乙女!』
『王子さまを連れてきてあげたんだから、まずはお礼でしょ!』
「テオドールさまを連れてきてくれてありがとう、光の精霊さん」
フィリートの代わりにお礼を言う。せっかく来てくれたのだから、へそを曲げさせることもないでしょう。
『ほら、あんたの飼い主は礼儀って言葉を知ってるわよ』
『当然だろ』
ぷい、っとそっぽを向き合ってしまったけれど、二人はそれ以上、喧嘩をする気はないようだった。
「ユーリと二人で行くから、罰が当たったんだ」
「ユーリ殿下はゴールされましたか?」
「今、外で反省させてる」
「ごめんなさい、テオドールさま。迎えに来てくださって、ありがとうございます」
そっと、背に腕を回す。羞恥ばかりが顔を焼いて、なかなか私からはできない。けれど今日は、すべきでしょう。
「次は俺も行くからな」
拗ねた子どものような口調に、思わず頬が緩んだ。
「ダメですわ。ユーリ殿下に知識をお裾分けするのは、私の特権です」
「そうやって甘やかすから、あいつはいつまで経っても君を独り占めしようとするんだ!」
俺の婚約者だぞ、とそれこそ子どもの駄々のように言う。理想的でも完璧でもなくなった私の王子さまは、とっても可愛らしくて、愛おしい。
「だって私、義弟のことは可愛がらずにはいられませんの」
いかに子どもっぽくとも、テオドールさまの優秀さは揺るがない。私の遠まわしな言葉なんて、簡単に紐解いてしまう。
「それは、……ズルいだろう。ヴィは意地が悪いな」
「テオドールさまが、私から義弟を取り上げようとなさるから、お返しです」
テオドールさまは、ぐぅ、と呻って、両手をあげて手のひらを見せた。降参、ということらしい。
「わかった、俺の負けだ。戻ろう、みんな心配してる」
「はい、テオドールさま」
手を引かれ、歩き出す私たちの後ろで、精霊達が囁き合う声がする。
『何あれ。火傷しちゃうわ。あんたいっつもあんなの見せられてるの?』
『しっ! 見守ってあげなよ、大人げないな』
『だってあんなの……砂糖菓子じゃないのよ?』
『人間の愛ってそういうものなんだよ。知らないの?』
『知りたくもないわ』
『君のソフィアだっていつか知るかも』
『どうかしら』
そっと見上げたテオドールさま耳は、真っ赤になっていた。冷やかされて熱が回ったらしい。揺れそうになる肩を抑えたけれど、緩んだ口元はどうしようもなかった。見られないように正面を向く。
光の精霊の指示で、帰りは迷わなかった。
入口まで問題なく戻り、アーチをくぐる。
「ヴァイオレットさま!」
ソフィアさんの声、と気づいた時には抱きしめられていた。見れば、目端に涙が浮かんでいる。随分と心配をかけてしまったらしい。一緒に走って来たらしいロータスさまも、不安げに眉が下がっている。
「あらあら、心配をかけてしまって、ごめんなさい」
「ご無事でよかったです」
背に腕を回してそっと撫でる。
遠くでこちらを見ていたゼルさまに会釈をすると、肩を竦められた。ユーリ殿下はどうしてか膝から下に芝生の草をくっつけて立っていた。……反省って、地面に座らせたのでしょうか。
ぎゅう、と体を抱き締めるソフィアさんを見下ろして、その手がロータスさまと繋がっていることに気づいた。
「ところで、ソフィアさん。どうしてロータスさまの手を握っているの?」
「きゃっ! ごめんなさい思わず、その……」
無意識だったのか、ソフィアさんは真っ赤になって跳び上がった。しどろもどろに何事か言葉を吐き出しているけれど、ちっとも音になっていない。余程、驚いたらしい。
「いいえ。とても不安そうにしていらっしゃったので、わたしの手で安心していただけるのなら、いくらでもお貸しします」
宥めるように、ロータスさまがにっこり笑んだ。
見上げたソフィアさんが、ぽかんと口を開けて凍りつく。
「あ、ありがとう……ございます」
ソフィアさんの声が呆けた。心ここにあらず。
あらあら?
光の精霊に頬をつつかれ、ハッとしたようで、慌てて言葉を紡いでいる。けれどその様子は、明らかにおかしい。
まあまあ?
「では、お茶でも飲んで少し落ち着こう」
「そうですわね。ユーリ殿下にも謝らないと」
「放っとけ。婚約者の前で掻っ攫って独占しようとした、罰が当たったんだ」
「あらあら、テオドールさまったら大人げない」
テオドールさまについて行く。手を引いてソフィアさんも連れて行くけれど、その手はいまだ、ロータスさまの手を握ったままだ。
――あらあら、まあまあ。光の精霊さん、その時は意外と、近いかもしれませんわよ。
混乱したように首を傾げるソフィアさんを見ながら、私は持ち上がる口角を下げられない。何だか、ズルをして宝箱の中身を覗き見てしまったような気分。けれど大抵、いけないことというのは魅力的だったりする。
ごめんなさいね、ソフィアさん。私、今とってもわくわくしていますわ。




